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パンタナール無法地帯での旅 

Updated: Jan 23

(別タイトル:神様が「私はいるよ」と語られたパンタナール)


                            2024年1月7日 佐藤ジョン


[年末にレダに行くことになる]


2023年の12月にウルグアイのプンタデルエステの近くで、毎年恒例のコルビナ・ネグラの釣り修練会がありました。10月ごろに私は金南米大陸会長から「米国の海洋摂理を若者たちに教えてほしい」と頼まれており、12月8日から15日まで参加しました。そこで南米の純粋な若者たちに接し、海洋摂理を説明することができ、有意義な時を過ごすことができました。


金会長は、次は3月ごろにパンタナールで釣り修練会を行いたいという事で、私がピーター・パウロさんを補佐して計画を造り実行することになりました。私は教会の行事はあまり立ち入らない主義ですが、この事に合意したのは、ピーター・パウロさんが運営に対して難しさを感じていたので助けてあげたいということと、この釣り修練会を毎年の恒例行事にできれば、パンタナール摂理を南米の食口に継続的に伝えることが出来る大きな機会だと思ったからです。


ウルグアイからアスンシオンに12月19日に戻り、24日にレダを25年間支えて来られた佐野先生を招待して私の母のアパートで夕食を食べました。その中の会話で、佐野先生が28日ごろにパンタナールに行く予定であることを聞きました。佐野先生は、2024年1月半ばに日本から来る青年団を迎えるための用意をするため、カルメロ・ぺラルタ、プエルト・ガラニ、レダを年末に回る予定でした。私もピーター・パウロ氏と会い、3月の釣り修練会の計画をしたかったため、レダまでの道中であるカルメロ・ぺラルタまで佐野先生に同行することを検討し始めました。


カルメロ・ぺラルタはパンタナールの入口と言われ、ピーター・パウロ氏が住んでいるギア・ロペスとも車で3時間ほどの距離で都合が良い場所です。カルメロ・ぺラルタまでは私は幾度もバスで行き来していますが、バスはたびたびキャンセルされることがあり、年末年始はさらに不確実に感じたので、どうやって帰ってくるかが心配でした。決めかねていたところ、佐野先生から「レダに行きませんか、アスンシオンに帰るときは一緒に車で帰ってこれます」というメッセージが入りました。年末年始をレダで過ごすのは有意義であり、パンタナール釣り修練会はレダの岩澤所長にも相談するのは良いとも思い、承諾しました。26日のことでした。


[パンタナールに出発]


28日の午前7時に、佐野先生と私の相対者の仁美子さんと共に3人で佐野先生が運転する四駆のトヨタ・ハイラックスに乗りこみ、まずは700キロ離れたカルメロ・ぺラルタに向かって出発しました。途中でロマプラタ付近のガスステーションで昼食をして、カルメロ・ぺラルタには午後4時半ごろに到着しました。申し訳ないですが、私は運転免許証がないので、佐野先生のドライブでした。


午後5時ごろにピーター・パウロさんとカルメロ・ペラルタのパンタナール・インと言うホテルで会い、夕食をしながら会議を行い、夜8時には南米YSP会長のサミュエルさんとZOOMで繋がり、3月のパンタナール釣り修練会のための会議を行いました。その後、夜10時半ごろまで、ホテルの一室でピーター・パウロさんとみ言葉や証などの編集などを行いました。


仁美子さんは私たちがピーター・パウロさんと会議をしている間、カルメロ・ぺラルタのカトリック教会に訪問し、そこの修道女たちと友達になってきました。聞くところによると、その中の一人の修道女がちょうどフエルテ・オリンポに行きたいそうで、次の朝に私たちと一緒に行くことになりました。


次の朝、6時半には荷物を詰め込み、朝食を急いで済まし、6時45分にはパンタナールの入口であるカルメロ・ぺラルタを修道女のテレシータさんと一緒に出発しました。ピーター・パウロさんとはここで別れました。アスンシオンからカルメロ・ぺラルタまでは数年前に出来た舗装道路を使えますが、そこからパンタナールの奥地にいくのは土の道です。


修道女のテレシータさんは80歳近い老女でしたが、車の中で元気に喋ってくれました。裕福な家の大家族で産まれたようで、若い時に修道女になるとは夢にも思わなかったそうでした。しかし、あるきっかけから修道女になると十代の時に決意してから、一度も辞めたいと思ったことはないそうです。何故ですか、と尋ねると、「ずっと毎日、楽しく幸福だったからですよ」と言いました。


土の道を走り、トロパンパと言う途中の町を通過し、フエルテ・オリンポに着いたのは10時半ごろでした。フエルテ・オリンポの修道院にテレシータさんを送り届け、そのまま止まらずにパラグアイ川沿いに南に30キロ下ったところにプエルト・ガラニという小さな村まで行きました。


12時ごろに着いたその村では小学校の校長先生が佐野先生を待っていました。来る1月14日に日本から28名の青年団が到着し、この村で2日間の奉仕活動をする予定があり、その打ち合わせのために来たのでした。奉仕活動と言うのは学校の庭に遊具を設置するということで、校長先生は本当に喜んで迎えてくださり、設置場所のオプションを嬉しそうに説明してくれました。夏休みで子供たちがいない学校は、4~5室しかない小さい学校で、シンプルに造られた金色の屋根のカトリック教会の横に立てられていました。校長先生は、以前レダが設置してくれた養蜂の箱から取れたはちみつをペットボトルに入れてお土産にと渡してくださいました。30分ほどの打ち合わせが終わり、プエルト・ガラニを後にしてフエルテ・オリンポまで戻りました。そこの民宿の食堂で昼食をとり、フエルテ・オリンポの教会を管理している食口に会い、佐野先生は1月の青年団の訪問について、私は3月の釣り修練会についての打ち合わせを行いました。


このようにパンタナールの土の道を何時間も四駆のハイラックスで行ったり来たりして現地の人々と会うのですが、これまで70歳を超えた佐野先生が一人で計画し、地元の人々と打ち合わせをしてやってきたことに感銘を受けずにはいられません。年末だからか道ですれ違う車はほぼないし、集落の近く以外は基本的に電話は繋がらないため、道中で車が故障したりすると怖いのですが、佐野先生はそんな心配もせず、慣れたものでした。同時に、佐野先生の後任がまだ育っていないのが、悲しい状況です。このような仕事を誰ができるでしょうか。二世の中にパンタナール摂理を佐野先生のように人生を掛けて続けることが出来る人が現れるのでしょうか。今から育成し始めたとしても、時間がかかることです。午後2時ごろに、レダに向かいフエルテ・オリンポを出発しました。レダには夕方6時半ごろには着けるだろうという計算でした。実はその夜に雨の予報があり、雨を恐れていたのです。しかし、トロパンパでレダの青年団たちの奉仕活動の状況を見ようと時間を費やしてしまい、予定から一時間ほど遅れて午後5時半にマリア・アグジリアドーラという集落に到着しました。この村で国営の道路は終了し、レダまでの60キロの細い土の道が始まります。それまでアスンシオンから1000キロほどの道を旅して来たのですが、この最後の60キロが一番の艱難の道でした。


[レダに続く最後の泥道]


マリア・アグジリアドーラからレダまでの道は大部分が乾燥していたのですが、所々に水たまりがあり泥道となっていました。約20キロほど道に入った所で、車が深い泥につかまり停止してしまいました。午後6時過ぎでした。かろうじて前後に50センチほど動けたのですが、車輪が捕まった泥は深く、他の部分は乾燥し岩のように固くなっていて、車が抜け出すことが難しい状況にありました。ここでは電話のシグナルは勿論なく、レダに連絡することはできませんでした。


泥の中で車を解放しようとしていた中、バイクで乳飲み子を連れた男女が前から通りかかりました。その男性は何も言わずにバイクを降りて近くの茂みに入り、数分で木の枝を多く探して持ってきました。そして枝を車輪の下に突っ込んでくれました。それで車は泥をすんなり脱出することができたのです。その男女に5万ガラニを謝礼として渡し、ほっとして車を走らせたのは束の間で、数百メートル進んだところでまた更に深い泥で車が停止してしまいました。


今度は車はまったく動かない状況でした。右側の車輪は水にはまり、左側の車輪は固いが滑る粘土質の泥にはまり、車の腹のディファレンシャルなどの部分が固い岩のような土に乗ってしまっていたのです。3人とも頭から足まで汗と泥だらけになり、木の枝をまた集めて脱出を試みましたが、一センチも動きませんでした。佐野先生は息をフーフーしながら、そこから抜け出そうとして、ギヤを変えてアクセルを踏みながら頑張っていました。


この時点で日が沈んできました。「しかたがない、夜を越すつもりで人を待とう」と佐野先生は言いました。私も疲れて車に乗り込んで待ちました。午後8時半ごろに後ろから光が見えました。近づくとそれは先ほどあった子連れの男女でした。その男性は「10分後にトラクターを送るよ」と行って通り過ぎて行きました。佐野先生によると、先に牧場の基地があり、そこにトラクターがあるそうでした。「本当に来るのだろうか」と思いながら30分くらい待った時、前から二人の男性を乗せたトラクターがゆっくりと進んできました。その男性たちはロープを車の前に繋げ、ロープを繋げた金具が変形するほどトラクターで引っ張ったのですが、車はびくともしませんでした。ロープを繋げなおし、トラクターが前に進むと同時に佐野先生が車のスロットルを入れると、ようやく車は脱出できました。この時点で夜9時でしたが、夜を過ごす覚悟だったので、安心感をもって出発しました。「10時半にはレダに着けるよ」と佐野先生は言いました。


[恐れていた雨]


しかし、出発して数分後、あれほど恐れていた雨が降り始めたのです。最初は「このくらいだったら大丈夫」と佐野先生は言って車を時速30キロほどで走らせていました。しかし、雨はますます強くなりました。レダから30キロほどの地点では、車は滑り始めました。最初は一分に数度滑るような感じでしたが、時間が過ぎるにつれて滑る時間の割合が多くなっていきました。土砂降りになったとき、車はほぼ半分の時間は滑って走行していました。車が滑ると、車は左右に10度くらい傾くので、その度に佐野先生はハンドルを反対に切って方向調整をします。悪い時は30度くらい傾くのです。


光は車のヘッドライトしかなく、土砂降りの音、車が滑る音、そして佐野先生が時々フーっと強く息を吐き出す音が聞こえます。スピード計を見ると時速20キロほどで走っていました。レダまでは20キロほど残っており、一時間ほどの走行が残っていると私は見積もっていました。場所によって道路の幅が違うのですが、その時の道路の幅は比較的に広く、6-8メートルほどありました。道路は基本的に真っ直ぐなのですが両側に深い溝があり、集中を欠いた一瞬のミスで車は脱線することは確実でした。直感で、このまま行けばほぼ確実に溝に落ちることが想像できました。あまりにも危ないと思われたので、「佐野先生、無理にレダまで行かなくても、ここで休んで雨が止むのを待ちませんか」と私は提案しましたが、「今行かなくてはもっと悪くなる」と佐野先生は言われました。「これ以上悪くなることがあるのだろうか」と思いながら、佐野先生が集中できるように、私たちは一切話しかけず無言でハラハラしながら見つめていました。しかし、いつかは深い溝に落ち込んでしまうことを感じた私は、後ろ座席に座っていた仁美子さんにシートベルトをすることを勧めました。


その数分後、午後10時ごろに遂に右側の溝に車が滑りこんでしまいました。雨が降り始めて1時間ほど経った時でした。レダの基地から10キロほど離れた場所でした。そこまで滑りながら走った佐野先生は超人的に感じました。溝が思いのほか深く、車は右側に30度ほど傾き、私が座っていた助手席のドアを開けると、水が足元に入ってくるほどでした。佐野先生は車を前後に動かして溝から脱出を図りましたが、必ず滑って道路に右の車輪が登ることは見込めませんでした。佐野先生は両手で車の天井を押しながらアクセルを踏み込んでいました。佐野先生があまりにも息を強くしながら頑張っているので、佐野先生の健康を案じて「佐野先生、もう諦めましょう」と2度止めました。でも私たちが一緒にいることでより責任を感じていた佐野先生は、30分くらい脱出を試みた後、やっと諦めて夜を過ごすことに決めました。


状況的には、レダまでは10キロほどなので十分に歩いて行ける距離だったので生命を心配するほどではありませんでした。私が個人的に心配していたのは水と車の状況でした。佐野先生は500mLのペットボトルに3分の1ほどの水しかなく、私と妻は水筒に半分くらいの水しかありませんでした。しかし、最悪は雨を飲めばよいので大丈夫だと思いました。最終的に心配だったのは車です。雨が止んだとしても、泥の道でどうやって車を救出できるのか心配でした。最悪の場合は数日の間、車を置いていかなくてはいけないことを心配していました。私は「カッパがあるので歩いていきましょうか」と言いましたが、佐野先生は「ここで休もう」と言われました。


そのような中、夜11時頃、私の携帯が時々微少な電波に繋がることが分かりました。佐野先生の携帯はまったく繋がりませんでしたが、機種によって電波に繋がりやすいのかもしれません。レダの岩澤所長に「レダの直前で溝にはまっています」とメッセージを送ったところ、朝の3時半くらいに「救出にいかせます」と返事が来ました。私は冒険心で「レダまで歩いていきたいですが」とメッセージを送ると所長は「雨の後はジャガーが出るので車で待っていてください」と返事が来ました。



30日の朝6時半ごろ、前方から車が近づいてきました。レダでメカニックを担っているパブロさんが運転するトヨタのハイラックスでした。パブロさんの車に私たちの車の前方をロープで繋ぎ、引っ張ると驚くように簡単に溝から脱出することができました。パブロさんが到着して5分も経たないで、レダに再度向かい始めました。


[レダ基地の状況]


雨は止んでいましたが、最後の5キロは道が一番険しいところでした。レダの土地の中は2メートルほど高い土盛りの狭い土の道を通らなくてはいけなく、もし前夜の豪雨の間に通過しようとしていたら、更に大事故になっただろうと想像できました。強い水流で、道は所々が崩れていました。これを見て、内心「佐野先生、こんなところを昨日の夜のあんな土砂降りの間に通過しようとしていたんですか。なんて無理をしようとしていたんですか」と文句を言いたくなりました。ある意味、10キロ前であの溝にはまっていなかったら、より大きな事故を起こしてしまっていたのかもしれません。


30日の朝8時ごろにやっとレダ基地に到着しました。レダの青年たちが笑顔で迎えてくださり、食事まで用意してくれていました。3人で食事をしながら、なぜこんなに難しい道だったのかを語りました。佐野先生によると、過去に何百回もレダに旅をしたけれど、このように難しい旅は無かったそうでした。今回の旅ではレダに近づく度に問題が大きくなってきました。私も教会で育ったので、「レダに来るために条件が足りないので、蕩減として3度も霊界が止めたのだろうか」とも考えました。しかし、私は基本的にこのような考え方が嫌いです。何かあった度に「神様だ」「啓示だ」「蕩減だ」「条件だ」という考え方には同参しません。そのような不確定な事を細かい出来事があるたびに考え言わなくても、問題があれば再発しないように反省し、はっきりしている目標のために、やるべきことを続けるだけだと思っています。今回の事は「まあ、幾度も行ったり来たりすれば、こういう事もあるさ」という捉え方を私はすることに決めました。


食後に岩澤所長からメッセージが来て「朝10時にパク―の孵化作業をやるので、見に来ませんか」と言われたので、滝川さんと川久保さんが主導している孵化作業を見学しました。パラグアイ人の作業員が二名と、日本人の青年たち四名が作業に参加していました。孵化は24時間体制で数日間見守る作業だということでした。岩澤所長が途中で現れて、私たちは挨拶することができました。6月にサンパウロの指導者会議で会った以来でした。サンパウロでは岩澤所長とは数日間共に過ごし、色々な事を話して信頼関係があったので、久しぶりに会えて嬉しかったのです。特にボリビアの宣教や子女家族の話を聞いていて、岩澤先生のことは尊敬していました。




午後は岩澤所長と2時間以上話すことができました。共通する問題、青年教育の方法、パンタナール釣り修練会などについて相談することができました。その話の中で焦点となったのは、やはり、人材をどのように育成していくかでした。どこでも同様の問題は、相続者不足だということです。私たちのアスンシオンの工場も人材が定着することが少なく、人材を育成しても数年で日本に帰ってしまうことが多かったので、会社の役割を幾度も引継ぎながら無理に続けてきたのです。レダの土地は8万ヘクタールで、やるべきことが大きいので、人材不足の苦悩もそれだけ大きかったと思います。各自が重要な役割を持っていて代わりがいないので、一人いなくなったら後が続かないギリギリの状況で続けているのが分かりました。例えば、レダ基地のたった一人のメカニックのパブロさんの家族はパラグアイの南のピラーに住んでいて、パラグアイの北に位置するレダと真反対の場所に住んでいます。そのように単身赴任の人に頼らなくてはいけない状況でした。


やるべきことが多いのに、いままでやってきたことを受け継ぐ人も少ない。この苦しい現状をやはり目にしました。このような広大な土地を管理し、理想村を建設するという偉業を行うために、あまりにも人が少ない状況です。スペイン語を流暢に話して渉外や管理をできそうな人は数名しかいません。このレダで定着する決意をしている主要人員も数名で、活躍してくださっているシニアの方たちも単身赴任であり、いつかは日本に帰ってしまいます。近年レダに移住してきた二世家族は子供たちが多く、活動範囲も限られています。その他の若者たちは1年間ほどのボランティアだと聞きました。


パンタナール摂理の実質的中心であるレダプロジェクトは、想像もできない逆境の中で、どのように生き残っていくのでしょうか。レダにきて開拓し定着する若者たちをどのように説得していけるでしょうか。


[カナン基地の状況]


31日の朝9時ごろ、私は佐野先生と共に、レダ基地の約10キロ上流に位置するカナン基地に6メートルほどのアルミボートで行きました。運転してくれたのはカナン基地の責任者であるレイナルドさんでした。



カナン基地は基本的にはボートでしか行けない場所で、牧畜事業のための基地でした。なぜカナン基地が存在するか理解するにはレダの土地所有権をめぐる問題を説明しなくてはいけません。パラグアイ川の主流は基本的に北から南に流れています。レダの土地はそのパラグアイ川に沿って縦に20キロ、横に40キロで、合計8万ヘクタールの土地です。現在のレダの基地はパラグアイ川の南の端に位置します。ところが、80万ヘクタールの内半分ほどの土地の権利書を不法に捏造して強引にレダの土地に侵入して武装して占領した人々がいるのです。その人たちはレダ基地から上流の10キロの川沿いの土地を占領してしまったのです。つまり、レダ基地は、大部分の土地が実際には侵略者によって土地が実質的に分断されてしまったのです。この土地所有権の問題の訴訟では勝ったそうなのですが、侵略者は地元の警察や政治家を賄賂などで抑えているらしく、いまだに居座っているようです。


このように土地が分断されているために、新しく「カナン」という基地に投資したそうです。この基地で牧童を雇い、現在は900頭くらいの牧畜を行っているそうです。


カナン基地はパラグアイ川の主流にはなく、支流に数百メートルくらい入らなくてはいけません。その支流は水草に覆われており、浅い場所もあったので、アルミボートを運転していたレイナルドは水草を分け、時々プロペラに絡まった水草を取り除き、浅い部分はモーターを上げてオールで漕いだりしながら、カナン基地に辿り着きました。レダ基地からボートで約30分くらいの旅でした。


カナン基地にはレイナルドさんの家族(奥さん、娘さん、二人の息子)と、作業員の夫婦(奥さんは料理を担当しているらしい)、そして一人の青年がいました。レイナルドさんの家族は普段は遠い場所に住んでいて、年末年始の祝日の期間の訪問だそうでした。レイナルドさんは過去に5年間、フエルテ・オリンポの教会の牧師をしていた祝福家庭です。そのフエルテ・オリンポ教会は現在は誰も担当していません。ボートから基地に徒歩で歩く間に、佐野先生がレイナルドとフエルテ・オリンポの担当者について話していたのですが、レイナルドは「あそこの担当者は体を動かし働くものでなくてはいけない。でも教会の指導者は働くことを嫌がる『座るものたち』が多い」と話していました。レイナルドの腕は太く、このような僻地の基地を任せるには頼もしそうに感じました。


カナン基地の電気はすべてソーラーパネルで賄っていました。携帯は基本的に繋がらない地域でしたが、家の近く10メートルほどはシグナルの拡張機があるらしく、携帯は問題なく使えました。


到着後、佐野先生が作業員たちと少し話した後、レイナルドさんに最近投資したらしい農園を見せてもらいました。農園は造ったばかりで土は近くの山からもってきたそうでした。そのあたりの土では野菜があまり育たないからだそうでした。


次は新しく投資したらしい、牛の体重計や予防注射を行う牧場の施設を見せてもらいました。ラパチョやケブラッチョの木材でできた、長持ちしそうな木造の設備でした。


牧場を見せてもらった後、佐野先生が作業員たち各自と会議をするということで家の中に入りました。私は特に会議に参加する必要はなかったのですが、そばに座って聞くことにしました。まずはレイナルドさんと佐野先生は話されました。その内容は、牧畜事業を拡大することで、いくらのコストでいくらの利益がでる、という内容でした。レイナルドさんは自信を持ってその数字を提示していました。佐野先生もこの話には希望を感じたようでした。


次に、一人の食口が佐野先生に話に来ました。この食口の名前はここではいいませんが、他の作業員と仲が悪いのが原因で、佐野先生がその他の従業員を認め続けるのならば辞める、という話でした。佐野先生はいきなりの話で驚いた様子で、「摂理のために続けないといけない」と説得しようとされましたが、その食口は「摂理は分かるけど、私たちの信仰を乱用してはいけない」などど言い返していました。不思議なことに、しばらくすると「給料を上げないと、ここを辞める」と言い出しました。佐野先生は「え、結局はそういうことなのか、お金がほしいのか」と言ったのですが、この食口は堂々としているのです。その不思議な会話はレイナルドが途中で入ってきておさまったのですが、代行者がいない中で運営しているギリギリの状況下でのこの会話に、そばで聞いていただけの私も動揺しました。


その会話の直後に、集まって昼食をしました。私はその前にあった会話にいまだに動揺していましたが、佐野先生も辞めたいと言った人もまったく普通に会話をしながら食事をしました。どんなに理不尽な状況でも、責任者は怒ったり文句を言ってしまってはいけないことを感じました。怒ったりしてしまえば、替えが聞かない重要な人材を失ってしまうからです。


昼食のあとにレダ基地に戻りながら、佐野先生は「日本人同士だったら、このようなことはないのに、、、」と言われていました。


レダでは侵略者問題、人材問題があるだけではありません。いままでアキタバンという木造の船がパラグアイ川を上下し、レダでも資材や食糧を届けてくれていたのですが、2023年12月に老朽化によりその船は運航停止になってしまったのです。フエルテ・オリンポまでは他の船は運航していますが、レダやバイア・ネグラまでの船はなくなってしまったのです。


[アスンシオンに戻る道]


カナン基地を後にして、13時ごろにレダ基地に到達しました。その朝から佐野先生は考えておられたようですが、すぐにアスンシオンに出発することになりました。その夜に雨の予報があり、その後三日間の雨の予報が続き、その日に出なければ車ではレダ基地から出られなくなる可能性が高かったからです。レダ基地に戻り次第、仁美子さんと急いで荷物をまとめ、軽く掃除をしてから車に乗り込みました。申し訳なかったのですが、岩澤所長を含めたレダ基地の方々には挨拶する機会がないまま、出発しました。大元さんが急遽用意してくださったというモリンガ、ニーム、マンジョーカの葉の粉末を仁美子さんがいつもらったのか、車にちゃんと入っていました。滝川さんや川久保さんが日本に祝福の件で帰った時にレダからのお土産がなかったので造ったものだったようです。


31日の14時過ぎに、佐野先生と私たちは車でレダ基地を後にしました。レダ基地に入るゲートは、警備員が開けてくれました。佐野先生によると、数名の武装警備員を雇っているそうでした。警察や水軍はお金で動かされてしまうので、警備員を雇うことにしたそうです。


29日の夜から雨は降っていなかったので、道路は比較的に乾いていたのですが、マリア・アグジリアドーラまでの土の道はやはり多くの泥道が残っていました。レダに来るときに一度溝にはまり、二度泥にはまって動けなくなったのですが、その三か所は問題なく通過できました。しかし、来た時よりも泥で道が崩れているところが遥かに多かったのです。泥で道がえぐれている場所に差し掛かるたび、ハラハラしながら通過していきました。佐野先生は「ここで最後の泥道だ」と私たちを安心させるために幾度も言われたのですが、泥道に何度も何度も遭遇しました。油断すれば必ず捕まってしまう状況で、泥道に差し掛かった時は、佐野先生は一度車を止めて、どこに車輪を乗せればよいかをあらかじめ考え、スピードを上げて勢いで泥道を乗り切っていきました。



レダ基地からマリア・アグジリアドーラの村までは約60キロあるのですが、約50キロほど通過したところで、また佐野先生は「これからは泥道はないですよ」と言われました。レダから約1時間半ほど走ったところでした。しかし、その後、数キロ先で50メートル以上ある長い泥道が現れたのです。それを見たとき、私は「これは絶対無理だ」と思いました。佐野先生は泥道が始まるところから10、20メートルくらい手前で車を停止させましたが、すぐにアクセルを踏み泥道に突入しました。しかし、やはり泥道が始まって20メートルもしない地点で、車は前にも後ろにも進まない状況になってしまいました。前には30メートル以上にもなろうかという泥道が続いていました。GPSによると、マリア・アグジリアドーラの村から7キロほど離れている地点で、電話はまったく通じない場所でした。31日の午後4時前でした。


佐野先生はしばらく脱出を試みた後、「ここにいてください、私がマリア・アグジリアドーラまで歩いて助けを呼んできます」と言われました。私は「いいえ、私が行きます」と言ったのですが、佐野先生は責任を感じていたらしく「いや、佐藤さんがいっても知人がいないので助けてくれないでしょう、ここで待っていてください」と言いました。私は「では持っているコンタクトをください」と言うと、佐野先生は「今日は年末なので、誰がいるか分からないのです。私がやはりいかないといけないんです」と言って、歩き出しました。


私はしかたなく、車の運転席に乗りかえ、佐野先生の歩く後ろ姿を見ていましたが、泥水は深いところは、佐野先生の膝のすぐ下まで来ていたのです。数十メートルまで佐野先生は歩いたのですが、泥にスリッパが深くささって取り出せなくなり、はだしになってしまいました。はだしになって、佐野先生はまた歩き出しました。佐野先生はアフリカの宣教時代に大事故にあって以来、普通に歩けないのです。70歳を超えた高齢で、猛暑の中の7キロの泥道を歩こうとしていたのですが、それは何時間かかるでしょうか。しかも水を持っていないのです。



私は仁美子さんと目を合わせると、仁美子さんの顔は佐野先生への心配でしわくちゃでした。私はたまらず、車から出て、佐野先生を追いました。そして、佐野先生に追いついて、「私がやはり行きます。トラックに戻ってください」というと、やっと佐野先生は納得したらしく、「マリア・アグジリアドーラの交差点でマラビージャという駄菓子屋さんがあってアルドメラという人がいるから、話したら助けてくれると思う」と言いました。


そうやって私はマリア・アグジリアドーラに向かって歩き出したのですが、「年末の日には村の人を見つけたとしても、果たして助けてくれるんだろうか」「村にトラクターや大きなトラックをもっている人が見つかるだろうか」「7キロと言ったら泥道では2時間くらいかかると見といたほうがよい、今は4時過ぎているので、暗くなる前に助けを呼ばなければ」「私は村に着いたら水は心配ないが、佐野先生や仁美子さんは飲み水がなくなったら大丈夫だろうか」など、心配を頭の中にたくさん抱えていました。


しかし、1.5キロ歩いたところに一軒家があったのです。その門に立って「オラ、オラ」と大声でしばらく呼んで数分経ったところ、家の中の子供が気づいてくれたらしく、寝ていただろう両親を起こしてきてくれました。父親らしい30歳代の男の人に事情を説明したところ、家の裏にあった赤いトラクターを出してきてくれました。年末31日に家の門に現れた東洋人の私のことを不思議に思ったでしょう。



そのトラクターに私も乗り込み、佐野先生たちが待つ車に戻りました。トラクターの鎖を車につなぎ、すんなりと泥道を通過することができました。佐野先生と私は男の人に約15万ガラ二を渡して感謝しました。私は、その家にいた3名の子供たちにキャンディーやナッツのミックスなど感謝の気持ちであげたところ、奥さんも家の前に出てきて、笑顔で手をふってくれました。


午後5時を過ぎていましたが、マリア・アグジリアドーラの村にまで到達したときは、ほっとしました。まだ土の道は続きますが、今までのような幅が2~3メートルの道ではなく、幅が10メートルくらいの公道に出たからです。


マリア・アグジリアドーラの村の交差点を左折し、土の道をアスンシオンに向けて南下し始めました。空は曇っていましたが、雨はまだ降っていませんでした。マリア・アグジリアドーラから、土の道が約120キロ続きます。その後は最近できた舗装された大陸横断道路に出ることができます。雨が降る前に土の道を通過できれば、どんなに雨が降ったとしても安心してアスンシオンに帰ることができます。


マリア・アグジリアドーラから50キロほど南下し、トロパンパのガソリンスタンドで燃料を入れて、そこで売っていたエンパナーダをいくつか夕食のために買いました。そこから舗装道路まで75キロほどの道のりがまだありました。


トロパンパを出発したころ、私たちの右側(西方)の数キロ先で土砂降りとなっていました。空の雲から豪雨が降っていることがはっきりと分かります。私は雲の動きを見て、その豪雨が私たちの方向に向かっていることを知りました。しかし、佐野先生は相変わらずポジティブで「このまままっすぐ行けば雨が来る前に舗装道路まで出れますよ」と言いました。


道路は乾いていたわけではなく、湿っていて、時々車は滑りました。速度も40キロ以下で走っていました。舗装道路まで、雨雲との競争となりました。


心配している私に佐野先生が「いままでこんなに泥にはまった難しい旅はありませんでした。これは神様が導いているんだと思いますよ」と言われました。


あまりすべての出来事を神様や蕩減のせいにしたくない私は「いや、こんなにたくさんレダに旅をすれば、統計学的にいつかはこんなこともあるはずですよ」と返しました。


すると佐野先生は「じゃあ、舗装道路に着くときにちょうど雨が降りはじめたら、私たちは神様に導かれていた旅だったことを認めますか」と言いました。


私は「まあ、そのような偶然もあってもおかしくないですね」と返しました。


不思議なことに、右側にあった豪雨はずっと1キロほど先で降り続けていましたが、私たちの走る道路まで到達しませんでした。舗装道路まで後10、20キロほどの地点まで到達したとき、前方にも雨が降っている雨雲が見えました。


舗装道路に到達する前に、門を通らなくてはいけません。通常は門番がいて開けてくれるのですが、その門に到達した時、年末だったのか、門番が門を開いてくれませんでした。5分ほど待ってやっと私たちの車を見つけてくれ、門を開きに来てくれました。


門を通れば数メートルで舗装道路です。アスファルトに車が乗り、数秒も経たないうちに、佐野先生が「ほら、雨が降った!」と言い、確かに車のウィンドシールドにぽたぽたと雨が降り始めていました。すぐに佐野先生に「神様だったって信じますか」と言われたのですが、私は返す言葉がありませんでした。


雨の中を舗装道路でまた3時間以上を走行し、ロマプラタの町へ到着しました。ホテルに到着した時はもう年始の零時を超えていました。佐野先生はこの旅で一度も休まず、疲れた様子もありませんでした。私たちは泥だらけの靴でロビーを汚しながら寝室にたどり着き眠りにつきました。


新年の朝を迎え、ホテルで朝食を食べながら日本の能登半島の大地震の件を知りました。泥だらけの服や靴、トラックの内部をホテルの駐車場で洗った後、朝9時ごろに出発しました。アスンシオンまで450キロの道をドライブして、1月1日の午後4時ごろにアスンシオンに到着することができました。


12月28日の早朝に出発し、1月1日の午後に終わった5日間の旅はこうして終わりました。レダにいた時間は約30時間ほどで、そのほかはほぼトラックで旅をしていました。


次の日に佐野先生から、フエルテ・オリンポ周辺の道路は泥で閉鎖されたことを知らされました。私たちが31日にレダを去っていなければ、道路がしばらく使えなくなりレダに少なくとも数日間足止めをくらっていたはずでした。


もしかすると神様が導いてくださったのかしれません。パンタナールの旅で、神様が「私はいるよ、見ているよ」と私たちに伝えてくださったのかもしれません。もしかすると、佐野先生の精誠による霊的現象だったのかもしれません。


今回の旅では4回車が泥や溝でつかまり、その3回は見知らぬ現地の人たちに救われました。警察も政府も信じられない、無法地帯であるからこそ、人間関係が重要なんだと言うことを知りました。パンタナールは良いことも、悪いことも多くあり、真のお父様の「良いものも悪いものも、すべてを飲み込み協力しあっていくのがパンタナール精神だ」と語られたことが思い出されました。


レダのプロジェクトは1999年8月1日に真の父母様がホテル・アメリカーノの聖地に日本人国家メシアたちを招集した時に始まりましたが、このような僻地で二十数年間も真の父母様を信じて逆境の中を歩み続けた先輩方の精誠は無駄にならないと信じたいし、必ず無駄にしないように私も歩んでいきたいと思いました。


でも、実際にはどうしたらこの逆境を超えられるのでしょうか。パラグアイのチャコに1930年あたりに移住したメノナイトたちは、理想郷を造ろうとチャコに入る前にカサドで、はやり病で百名以上の人が命を落としました。そして、チャコに着いてみれば理想とはほど遠く、土は塩素を含み農作物は育たず、「緑の地獄」と言われる水がない土地でした。逆境はそれだけではなく、チャコはボリビアとパラグアイの戦争の真っ只中でした。そのような逆境の中でも、メノナイトたちは増え発展し、今日は総合でチャコ地域に100万ヘクタール以上の土地を有する裕福な部族となりました。


私たちも、真の父母の理想の社会をパンタナールに造るのならば、少なくともこのような逆境を幾度か超えなくてはいけないのだと思います。私が2013年に初めて佐野先生とアスンシオンで食事をした時に言われたことを覚えています。「何があっても諦めずに続けることが、一番重要なんだ。」


(了)


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