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天宙に立つイエス様


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御言葉「天宙に立つイエス様」 1965年10月3日 日本・東京教会

 聖書拝読  マタイによる福音書二十六章36~46節  この宇宙においては、絶対なる基準としての神様の存在を認めなければなりません。神様がおられるのならば、ある目的を持っておられなければならず、目的があるのならば、希望を持っておられなければなりません。その目的が大きなものであればあるほど、日々の生活に愛の心情を感じなければ、その希望ということを目的の境地まで引き継いでいくことは難しいということは、当然のことです。

 神様は、愛なる目的を持って万物を創造されました。第六日において、この宇宙の中心として、目的を完成する中心人物、希望の実体として、日々の生活を神様のみ意にかなうように送る開拓者、その心情の基準を取り継いでいかなければならない責任者として立たせたのが、私たちの先祖のアダムとエバであったということを、私たちはよく知っています。この子女を創造された後、神様は、日々の生活圏を通して、「自らの目的とする希望の日はいつか」と思わざるを得ませんでした。その神様の前に立っているアダム・エバとしては、神様の目的を完成させる使命を果たさなければならない立場に立っていました。

 そうしてアダムを見るときに、「アダムを信じたい」、「アダムに対して無限なる希望を持ちたい、無限なる愛情を注ぎたい」という立場が、言うまでもなく神様の立場でした。小さいアダムが成長していくにしたがって、神様の信ずべきその基準と希望と愛情も、ともに成長していきました。そして、神様の願われる最高の目的を完遂して、神様の愛のみを中心として、この天宙が栄光の宇宙となって、神様の思われるまま、神様の懐に感じられるとおりにこのすべての万物が感じるような世界、分けようとしても分けることのできない一体化した世界を実現しようとされたのです。

 しかし、思わざる一日を迎えて、アダム・エバは堕落したのです。堕落の一日を迎えた神様におかれては、信ずべきその基台がなくなり、希望とする基準がなくなり、愛すべきその実体がなくなってしまいました。その結果として神様の創造目的は、未完成のまま残ってしまったのです。

 人類始祖が堕落した結果、それ以後の人類、その子孫たる私たちの先祖は今までずっと、日が経るにしたがって神様から遠ざかり、神様の希望とされる目的に対して反対の方向に向かって進んでいきました。神様の希望に逆らい、神様の信ずべき基台に逆らい、神様の愛すべきその立場から逃げていった結果になってしまいました。これをそのままにしておいてはいけません。この最高、最大の動機は、もちろん人間にもあったのですが、人間を誘ったサタンにもあります。ここに神様は、神様の怨讐としての存在を退けて、本然の目的を復帰しなければならないという立場に立たれたのです。

 この復帰の過程においては、人間が神様から遠ければ遠いほど、それに比例する、その隔たりを埋めるために必要な苦労をしなければなりません。犠牲を払わなければなりません。それを人間自身がする立場に立ってはいませんし、サタンがそれを助ける立場に立ってもいないのです。やるという立場に立っているのは、ただ神様おひとりなのです。

 もともとアダムとエバは、神様の心情に通じ、神様の希望に躍りつつ、日々の生活の中で喜びの神様に抱かれて満足し、すべてのものに対して感謝の主体となるべきでした。その彼らが、あのような道を歩んだということをごらんになるときの神様の内的な心情の痛みは、人間の内的みじめさ以上の痛みであったのですが、そのことは、私たちの先祖たちとしても分からなかったのです。

 しかし神様の本源的な原則を中心とした、その目的観念というものを捨てられることのできない神様としては、いかなることがあってもこれを実現し、再び取り戻されなければなりません。ここに神様としても思ってもみなかった大義の使命の道が生まれ、それが私たちにとっての救いの道となったということを、私たちは忘れてはいけないのです。

 そうして神様は、心から慕ってこられた信ずべき一人の息子・娘、万物創造当時の希望となるべき息子・娘、あるいはその時まで希望に満ちた愛情を授けた、その一つ一つの出来事を、歴史の過程における時代時代、時々刻々を通じて、一夜といえども思わなかった時はありませんでした。けれどもそのことを、私たちの先祖たちは感ずることができなかったのです。アダム・エバのときから今まで、数多くの人間が地上を通して霊界に行きましたが、その人たちもその深い所にある神様の内的心情というものを悟ることはできなかったのです。それゆえに神様は、千六百年間の歴史を通じて人類と世界の中に、自分に立ち寄るたった一人の信ずべき人をも持たれなかったのです。            そこで、サタンを退けて神様の方にまっしぐらに走り、「ただ神様のみに、我は寄与する」という、そのような一人の存在を求めざるを得ない悲しい立場の神様は、ノアを通してその基準を立たせようとされたのです。神様が信じるように人間が神様を信じるという、そのような基準の一致を見いださなければ、神様としては、サタンを屈伏させて摂理を出発されることができません。そのような悩み、葛藤があるので、神様は、ノアを通して百二十年の間、神様の信じるその基準まで引き上げるための苦労の道を命ぜざるを得なかったのです。

 ノアは神様の命令とともに、百二十年後の洪水による審きのその日を一つの希望として、そのときまでを一つの信仰基台の期間として全うし、そうして、その希望と信仰基台を実行するその基準において、神様の愛情を生活の圏内に取りつけねばならなかったのです。それが神様の摂理であったということを知らなければなりません。一年でもない、十年でもない、百二十年という長い間、ノアというおじいさんは、毎日同じことを繰り返してきました。その家庭が歓迎したと思ったら大間違いです。十二日後のことでもなければ十二年後でもない。百二十年後です。それまでに死ぬかどうかも分かりません。その間に、皆連れ立ってノアに対してブツブツと言い始めたのです。

 そのような、環境から排斥される彼に神様は何を願われたのでしょうか? それは「我のみを信ぜよ」ということでした。周囲に渦巻くあらゆるものの中で、神様に尽くす者は一人もいないのです。しかし神様は、すべてが逆らって立ち上がっても、その中に踏み込んで、あるいは退けてご自身と一体となる信仰の基準を立たせなければならず、同じ希望の基準を立たせなければならないのです。そうしてその信仰と希望とともに、神様の審きの目的を完遂しなければなりません。そうして、そのつながりである毎日の生活を、感謝とともに神様に接するその基準において、愛情のつながりが始まるのです。このような目的でもって、神様はノアを立たせて舟を造らせたのでした。

 ですから神様は、ノアをごらんになるときに当然、「ノアもまた、アダムとエバのように再び、神様に対する信ずべき基準と希望と目的の基準において逆らう立場に立たないだろうか」と心配されました。ノアが立てば、それが難しい問題になってくるということを、神様はよくご存じだったのです。  日々のノアの舟造りの生活をごらんになっている神様は、もしノアがこのことから退けば、神様における蕩減がいかに多くなるかということを、ご自身がいちばんよくご存じであったのです。その一日一日を神様は、心からの悩みとともにノアを見詰めておられました。その神様の心情は、ノア自身も知りませんでした。  そうして、アダムの家庭を中心として、復帰の目的は未完成になってしまったので、それを復帰するためにはノアの八人家族が必要なのです。このような一つのことが徹底できなければ、二つのことを出発することはできないのです。しかし、親を中心として三人の子供が一体とならなければならない絶対基準を、ハム自身が知らずに損なった結果、神様の摂理は四百年も延長してしまったのです。            それから神様は、アブラハムを再び信仰の中心として、再び希望の基準として、再び目的完遂の使命を全うする責任者として立たせなければなりませんでした。その背後に愛情の心情を抱きつつ、その道あとをたどって行かれなければならない神様の立場でした。アブラハム自身においても、このような神様の内的心情は知らなかったのです。また、天宙が投げ出しても神様ご自身が信じ、希望を持ち、目的を達成する使命を果たしておられるということ、そして神様がすべて自分に任せておられるということも知りませんでした。  さらにアブラハム自身の立場が、自分の一挙手一投足、あらゆる面において審きの原則を立たせ、敵に対してもこれを審くことのできる審判の法則を立たせなければならない立場であったということが分からなかったのです。

 そして、そのような生活を通して行うべき生活の基準ということを、アブラハム自身がよくよく感じることができませんでした。ですから、三大祭物を神様にささげるときの山鳩を裂かなかったこの条件が、歴史を通して悲惨な蕩減となったということは、思いもよらなかったことでした。  その時が、天的復帰における天的原則の条件をもたらす最頂点にあったということを、アブラハム自身は知りませんでした。そのために、その結果としてイサクの実体の供え物をささげなければなりませんでした。そしてその結果、イスラエル民族はエジプトにおける四百年間の苦労の旅路を行かなければならなくなり、その復帰の基準において全うすべき目的を完遂できなかったのです。そのことが、イスラエル民族の悲しみの基となったということを、私たちはよく知っています。

 それからモーセや数多くの預言者、私たちの先祖を送られ、イスラエルを慕ってこられた神様は、信じることのできる一つの氏族を個人から立たせて、民族の編成をなさなければならず、その民族を中心として世界を神様の世界にしなければなりません。  私たちの先祖たちは、神様に代わってこのような段階の道を全うしなければならない責任があるにもかかわらず、それを果たすことができず、これを神様ご自身が身代わりになって全うしてこられたということも、私たちの先祖は知りませんでした。

 そのような立場で考えてみたときに、神様の歴史的立場というものが、私たち現世においては何の関係もなく、何の問題にもならないことと言えるのかというと、そうではありません。過去よりも現在がより、そう言えます。  なぜならば、今の時は世界的な時代だからです。範囲が広ければ広いほど、そこには神様の願われる個人も家庭もなければなりません。もしなければ、世界を前にして、神様の身代わりになって蕩減復帰をなす世界的な動きがなければなりません。

 もちろん神様は、それを慕わざるを得ません。そうすると、この宇宙、この世界に本当に神様の信じることのできる真なる子女がおり、男がいるのでしょうか? 堕落した人たちの血統圏からそのような人間を求めることはできません。生まれると同時に、八〇パーセント以上サタンの感情を受け継いでくるからです。           そうして、長い歴史の中で心情的蕩減圏を開拓し、神様に近づく仲保者として送られた一人の息子、そのかたがイエス様です。歴史は動く、時代は呼ぶ、未来は私たちに願いを持つ。それはすべて、神様から始めなければなりません。  この全般の使命を全うする、その中心の基準として、また歴史を解決し、時代を解決する、未来の解放の中心人物として、神様はイエス様をこの地上に送られました。そのような、人類歴史においての最高の喜びの日がやってきたのです。その喜びの日に対しては、だれもが慕わなければなりません。その基準を通さなければなりません。そのような運命にある私たち人類は、その日あればこそ、神様への信仰の基準を立たせることができ、その日あればこそ神様の希望に同調することができ、その日あればこそ、神様の愛情を受ける生活圏を得ることができるのです。

 現代は、悪が全世界を占領しています。占められている位置と環境の多数は、サタンの方に満たされています。それを清め、その環境を押しのけて、神様が四千年間の苦労の結果として、サタンの前に誇るものとして、希望のものとして立たせようとしてきた一人の息子が、私たちの救い主としてのメシヤであり、救世主でした。  イエス様は、そのような責任を持って、目的完遂の中心者としてこの地上に、天と地、あらゆる存在のまっただ中に来られたのです。王の王以上、善なる実体以上の立場です。神様はその者を通してごらんになり、すべてを考え始められ、そのかたを通してすべての行動を知らしめ、そのかたを通して愛情の生活圏を出発されます。これがイエス様を地上に送られてからの神様の内的要求であり、心情でした。

 しかし、その尊い息子を送られるには、その環境を造ってあげなければなりません。神様の願いに従う個人がなければならず、家庭がなければならず、選民となるべき民族がなければなりません。  選民思想があれば、選民としての子孫が生まれてきます。数多くの氏族、民族があるのですが、その中で神様は、神様なしでは生きられない者、たった一つの氏族圏、民族圏を四千年の歴史を通して、それまで苦労をしながらイスラエルの民族を擁しながら育ててこられました。そうして、か弱い信仰もない民族を信仰ある民族として、希望のない民族を希望ある民族として、メシヤの思想を預言者を通して授けつつ、たった一人の実体と関係を結ぶように長い歴史の期間を導いてこられたということを、私たちはよく知っています。

 そのメシヤが来られました。イスラエル民族のその勝利の決定権を決定しようとする基盤の上に立っている、その民族圏の中にメシヤは来られたのです。神様は希望の目的を完成するため、民族のすべての主体としてイエス様を遣わされました。  すべての目的はこのかたでした。すべての希望がこのかたでした。神様に対しての信仰を持ってきたその中心はこのかたでした。私たち、そして親が今まで引き継いできた歴史的な善なる規範も、このかたと関係を持とうとするためのものでした。           しかし、そのような内的、外的心情で、地上においてイエス様に立ち寄った人がいるかというと、いないのです。イエス様はそのような環境のまっただ中に立たれて、「歴史は呼ぶ、時代は自分に対して要求する、未来は自分が新しい運命を決定しなければならない」、「このような過去・現在・未来を通して、自分は重大な使命を持っている」ということを思われ、個人を中心とした生活をされることができません。公的な生活をされなければならないのです。

 後ろを振り向かれるときに、霊界にいる数多くの私たちの先祖の希望が、自分に懸かっているということを知っておられるのです。荒れ果てたイスラエル民族のその時代の状態を最後として、新しい世界へ導いていかなければならない使命があるということを知っておられる。もしもこの一段階を越えなければ、子孫は悲惨な結果になる。そしてサタンの世界において、サタンの讒訴のゆえに歴史を通して犠牲の供え物をしていかなければならない、ということをよく知っておられる。  そのようなこの宇宙的な使命の中に立たれたイエス様の心情でした。この心情を抱かれて公的生活を出発される前までの内的準備期間が、いかに真剣であったでしょうか?これは、聖書には記録されていません。もちろん、その当時、日々の食べるものを食べるためにイエス様についてきた大衆たちでは、どうすることもできません。

 それからまた、歴史を復活させなければならないのです。死んだ歴史を引き継いでは、生きた歴史を建設することができません。存在は、環境がなければ存在の基準を正すことはできないのです。その環境があって初めて、因縁を通して、関係を通して、存在の決定基準が生ずるのですが、これは地上の事情です。ですから、善なる希望の基準として立たせ、神様が今まで造ってこられた民族の善なる環境に対して、イエス様は関係を結ばなければならないのです。  一個人の関係でなく、歴史的関係であり、世界的関係であり、未来すべての関係です。それを結ぼうとされて、三年路程に発たれるときのイエス様の内的決意は、いかばかりであったでしょうか? それは、イエス様を慕う弟子でも知りませんでした。知っているのは、神様ばかりです。

 神様の目的の最大なる希望の上に、たった今立ったというその民族が行く方法を知りません。方法と目的基準に一致させなければ、目的完遂は不可能です。神様の方に行かなければならない民族であるにもかかわらず、反対の方向に行ってしまいました。  歴史的にたった一人しかおられないイエス様を神様が遣わされるときに、イエス様が最高の栄光の立場に立たれて、数多くの人々から崇められることを、神様ご自身が望んでおられたということは事実です。ですから、「もともと救い主としてこられたのだから、私たちの罪を赦そうとされるために、イエス様は十字架につけられざるを得ない運命を持ってこられた」と、することはできないのです。そのような神様はいません。

 全知全能の神様として、そのような方法、そのような仕方でなければ救いの道はなかったのでしょうか? そのように考えることは、神様に対する侮辱です。「天運によって十字架につけられた」と言うことはできません。そればかりではありません。神様におかれては、歴史的な信仰の基準と希望の基準、心情の基準の生活をなすことのできる環境を造られることを希望として、洗礼ヨハネを遣わされたのです。

 そうして歴史を取り継ぐには、歴史的供え物をささげて、そのような勝利を決定しなければ、歴史圏を授けることができないのです。なぜかといえば、今まで失敗を続けたために、あらゆる条件にひっかかっているのです。その侮辱を、神様おひとりでは取り除くことができません。もし、それができたならば、六千年間の今までの復帰の問題は問題ではありません。救いは問題ではありません。

 しかし、誤ったことはそのとおりに、原則どおりに直していかなければなりません。直すには、反対のもの以上の良い部分を残さなければなりません。そうでなければ、直っても使いようがありません。  ですからイエス様には、過去四千年間のあらゆる先祖たちが誤ったすべての過去の条件を担って、それ以上の価値の基準を立てて、神様の方に出発することのできる基準を造らなくてはならない使命がありました。そうしなければ、歴史的サタン圏の世界から新しい希望の神様の世界圏を出発することができないのです。            そのようなまっただ中に立っておられるイエス様の心情は、神様を見るときには神様を慰めなければなりません。なぜならば、今まで自分一人を希望とされて、四千年間の歴史をたどってこられた神様に対して申し訳がないからです。  今までのイスラエル民族を自分が指揮し、引き連れて、新しい民族に再建しなければなりません。その民として、あるいは子女として立てられたその者たちが、神様に逆らうということを思うときに、神様に対して面目がありません。イエス様は、心情の悩みとともに、オリブ山の麓を一人でたどりつつ、祈りの時間を多く持たれたということは、聖書の中にも示されているのです。

 そのような内的闘いの基準を解決されようとして、ヨルダン川に洗礼ヨハネを尋ねてこられたイエス様であったということを知らなければなりません。  イエス様は、神様からの愛と、神様からの希望と、神様からの絶対的信仰の基準に立たれて、神様の絶対的保護とともに、勝利の栄光の生活を出発しなければならない、神様のひとり子です。

 それでは、洗礼ヨハネはどのような存在なのでしょうか? それは、イスラエル民族を代表して神様から遣わされた使者であり、イエス様の前に立つ生きた供え物として、歴史的イスラエル民族を基台圏に引き入れることのできる中心人物であり、あるいは中心の供え物として、神様から遣わされた存在が洗礼ヨハネなのです。  ですから、百パーセントの信仰の基準で、百パーセント希望の基準で、百パーセント愛の基準によって、一致した基準で洗礼ヨハネを立たせて、神様の方にささげなければなりません。そのような使命を持たれたのがイエス様でした。

 そのように、洗礼ヨハネを一つのささげものとして、心情の基台と希望の基台と愛情の基台の実体としてささげてこそ、初めて歴史的失敗を蕩減復帰し、今まで神様の内心に引っかかっている恨み、悩み、苦痛を取り去ることができるのです。そして、イエス様を迎える基台を造るということが神様の摂理であり、それがイエス様が洗礼ヨハネを尋ねていかれたその目的であったのです。  それに対して洗礼ヨハネには、希望、心情、あるいは信仰の基準を、信仰の代表者、希望の代表者、あるいは愛情の代表者としての実体のイエス様から求め出さなければならないという使命があります。そうしなければ、これが枝として広がりません。そこで、「洗礼ヨハネは第一弟子となるべきである」というのが、神様の摂理上から見た彼の立場です。そうしなければ、逆らう存在になってしまうのです。

 ところが実際において、洗礼ヨハネは歴史を再び破壊した中心となり、そのためにそれまでのイスラエル民族とイエス様とを連絡する「はしご」が崩れてしまいました。そこからイエス様の生涯というものは、進歩し、発展する生涯ではなく、追われ、退く生涯となってしまったのです。相手から歓迎される生涯ではなく、追われる生涯になってしまいました。洗礼ヨハネが、使命を全うすることができなくなったその日から、イスラエル民族に対するイエス様の願いとは逆に、民族全体が反対し、反逆する立場となりました。ユダヤ教すべてが、絶対的にイエス様を信じるという中心の基準を立てることができず、今までの歴史観であるモーセを中心とした基準にとどまってしまったのですが、これは神様を認める基準ではありません。

 それ以後の二千年間の悲惨なイスラエルの歴史は、神様から遣わされたイエス様を迎えなかったことによるのです。皆さんが知っているように、第二次大戦のときには、ナチスによってイスラエル民族が何百万人も殺されました。そうならざるを得ません。神様の審きです。そうして時が再び来るまで、イスラエル民族は新しい希望を持つ資格を失ってしまったのです。  ですから、世界の果て、どこに行っても、行く所々において、彼らは追われる民族として、悲惨な歴史を残してきたということを私たちはよく知っています。これは、イエス様を十字架に追いやった罪です。それは、現在のクリスチャンには分かりません。「もしも、それが認められないのならば祈ってみよ。神様は生きておられる」。これが統一教会の主張です。            歴史を土台として現世に踏み込んで、未来に向けて再出発することが、神様のイエス様に対しての最高の目的でした。「その目的は、今いずこにありや?」です。今まで、その目的が再び現れることはありませんでした。イエス様を中心として、洗礼ヨハネを中心として、死畜をささげて外的復帰の道を補っていこうとするものであり、生畜の供え物をささげ通す救いの道ではありませんでした。十字架の救いの使命というものは、歴史上においてこれ以上に悲惨なことはないというのです。

 「神様の第一子として生まれたアダム・エバは、いずこに行きしや?」これはサタンの方に虜となってしまいました。これを粉砕して、再び神様の方から救いの基台を造るために、そこに遣わしたイエス様はいずこにありや? それが十字架につけられて、サタンによるイエス様の肉体への侵入を許さざるを得ない圏を造ってしまったのです。このような事情のもとに、霊的救いの道を開いていったのが、第二イスラエルとしてのキリスト教です。  第一イスラエルは神様に逆らいました。しかし、第二イスラエルを立たせて、逆らわないもともとのイスラエルとなることを願い、第二イスラエルを引きつけて新しい希望を残して、救い主を再び求めなければならない基準に導いていくのです。その基準こそ、今までのキリスト教の「再臨の時」であるということを、私たちは学んでいるのです。

 第一イスラエルは、第一アダム・エバの子孫として、アダムの行った道を行ってしまいました。第二イスラエルの中心として、第二アダムの使命を全うしに来られたイエス様が十字架につけられて行かれたのですから、今までのキリスト教はそのとおりに、十字架の道をならって行かなければなりません。  サタンによって、私たちの先祖たちが摂理上の目的を完遂する使命に従わなかった、その立場を償う条件がこの歴史とかかわり合っており、信仰圏に伴って歴史が発展しているということは、歴史家も知らなければ宗教家も知ってはいないのです。  そこで将来のイスラエル圏を、第二の世界の舞台を中心として造ろうというのが、イエス様の十字架以後の、第二の摂理なのです。そうして第二イスラエルの世界圏は造られたのです。これは霊的な世界圏です。          人間は、もともと霊的だけではありません。霊肉共の存在です。イスラエル民族によって、霊的天国を目標としたのではありません。ローマを屈伏させ、世界を踏破し、神様の摂理を完成した地上天国が目的です。アダムが堕落しなかったならば、その時代に、神様の創造目的を完遂した地上天国を全うすることができました。  地上天国とは何でしょうか? 神様への信仰基準が百パーセント、生活圏内に現れているその世界であり、あるいは、希望自体が完遂されている中心人物を中心として動く世界であり、神様の心情がだれにでも現れることのできる、その世界のことです。これが地上天国です。

 ですから、このような使命を果たさなければならないイエス様にとって、過去を振り向くときに思われたことは、「もし、自分がイスラエル民族のこの過ちを赦さなかったならば、神様の摂理上における再延長というやり直しを成すことができない」ということです。それは基台がないからです。イエス様は、そのことをよくご存じです。  それゆえに十字架上においてイエス様は、「神様よ、我を打って新しい歴史として出発し得る因縁を残してください。現世イスラエル選民が亡びるとともに、全人類が亡びなければならないではありませんか。どうぞ第二のイスラエル圏を残して、今まで築いてこられた、神様ご自身苦労なさったその基台を残してください。我なくば、新しい未来の主権がどんどん闇の中に埋もれて、全人類は神様も何も分からなくなってしまうでしょう。そのような段階に引きずり込まれてしまうでしょう。それゆえ、神様が願われる灯として残ることのできる未来の世界の希望を残してください」という、そのような真剣な心持ちであられたということを、あなたたちは知らなくてはなりません。

 三十三年間の歴史を通して神様の前に出たときに、それは過去において使命を全うすることのできなかった、イエス様ご自身の悔い改めの時間でもありました。  「歴史上の先祖たちの過ちを赦してください」  イエス様が赦さなければ、神様も赦されることができません。神様が赦されることができなければ、イスラエル民族の名前を残すことができません。それでイエス様は、彼らのその日の過ちをそのままにし、延長させて将来の第三の希望の環境と基台とを願われつつ、十字架の道を選ばれなければなりませんでした。           第二の敗戦のゆえに、第三の戦いの準備の期間となったのが、今まで世界に発展してきた第二イスラエル民族の歴史、すなわちキリスト教の歴史です。すると、後に残るのは何でしょうか? 第三のアダムの価値を担って、天地創造本来の目的を完遂させるために、また、神様が創造された当時の神様の信仰の絶対基準と絶対希望の基準と絶対心情の一致基準を、再び最後の歴史の先端に立たせて、責任を三回目に全うして、その神様本来の希望の再出発を成そうとするのが、来るべき再臨の道であるということをはっきりと知らなければなりません。

 その場合に、一体何が条件となるのでしょうか? 第三イスラエル国家が編成されなければなりません。  今までは皆、犠牲でした。イエス様がご自分の身を犠牲にされ、十字架につけられたからです。導く人が行く道は、導かれる人の行くべき道です。十字架の道を行かれたイエス様を慕う人たちは、十字架の道を行かなければなりません。イエス様が霊的天国を慕っていかれたため、地上にいるクリスチャンは霊的天国を慕いつつ、今日までやってきました。

 それで完成するかというと、もちろん完成しません。神様は、地上に目的を完成する人間を創られました。水と土と空気と太陽の要素をもって、人を創られたのです。それは、あなたたちが思うような空想的な天国ではありません。地上天国です。そのような世界をイエス様は望んでおられたのです。           十字架につけられるとき、イエス様は手からしたたる血をごらんになるときに、過去において立てられた条件を探ろうとされました。それがイエス様の心情です。そして、両手、両足、頭、脇腹から血を流されながら、神様に祈られたのです。  「歴史的な先祖の罪を赦してください。神様に対して慕うことのできなかった、ささげものをささげることができなかった、私たちの先祖の身代わりとして受け取ってください。そして私が、三十三歳の若さで死んでも、神様のために果たし得たという条件を立たせてください。それは、神様が今まで四千年間の歴史を通して苦労してこられた、その神様のご苦労が切られてしまうからであり、また、自分の願いを全うしなければ、自分の祈りに神様ご自身が応じられなければ、今までの四千年間の神様ご自身のご苦労がなくなってしまうからです。ですから、今までの親としての神様のご苦労に対する心情的つながりの基準を、自分によって立たせてください」

 すべての先祖や、神様の心情、自分の未来の心情の基準に立って天を見るときに、ただ、ただ申し訳ない。歴史を見るときに申し訳ない。現在・未来に対して申し訳ない。その立場において、憐れみのみ意を持たなければならない神様ご自身であられるということを、イエス様はよくご存じでした。  またその祈りは、「神よ彼らの罪を赦してください。私は、今までの神様の苦労してこられた歴史を残さなければなりません。この基準において、サタンの讒訴条件をぶち壊して、そして新しい第二の摂理における歴史的勝利の基盤だけでも造らなければなりません」という真剣な祈りでした。

 未来の人を救うよりも、まず過去の歴史的因縁を取りつけて残すのが問題です。歴史を救わなければなりません。ですからイエス様は、亡くなられて三日の間に地獄に行かれて、ノアの時代から審かれたすべての人を伝道なさったのです。  歴史的な伝統を、新しく自分ながらに立たせなければならない重大な使命があったということは、今までの人は分かりませんでした。歴史の勝利の基盤を造ってこそ、サタンが退くことができるのです。いくら現在における勝利を得たとしても、それが歴史的勝利の基盤とならなければ、歴史を支配し、神様の心情の摂理基準を引き継ぎ、それと連結することはできません。

 四千年間の人類歴史を代表してイエス様は来られたのですが、イエス様は、地上の三十余年間の生活を通して、その短い期間に歴史を担って悩まれました。そのようなかたは、イエス様以外にはだれもいません。ですから、霊界がそのかたと因縁を持つことができるのです。歴史を生かした人だから、時代を復活させることができるのです。

 あなたたちは、アダムとエバの家庭におけるアベルとカインのことをよく知っています。カインが摂理を全うすることができて、その後にアベルが出発することになっていたはずです。ですから、イエス様の前の時代、後の時代は、時代性から見れば、前の時代はカインの時代であり、後の時代はアベルの時代です。  イエス様は、第二の世界のアベルの主人であり、アベルの世界を建設するための第一の責任者です。今までの世界はカインの世界です。自分を中心とした世界、これをそろえてアベルに屈伏させて初めて、兄弟が真の父母を迎えて自分たちの立場に立つことができるというのです。これは原則です。  未来も過去も、アベルの基準に屈伏させなければなりません。その代表者として、洗礼ヨハネが過去と未来を結びつける使命を全うしなければならなかったのです。イエス様の担われる新しい世界の出発は、イスラエルの内外共に完遂することのできる基準の立ったところから始められなければなりませんでした。

 けれども、洗礼ヨハネの使命回避のために、イエス様は外的基準を受け継いでアベルの位置に立たなければなりませんでした。その闘いの過程が、イエス様の三年行路です。これは惨めなことです。あなたたちは、マタイによる福音書十一章をよく知っているでしょう? イエス様は、その洗礼ヨハネに対して、ご自身に審くことができる権力があることを示されました。私たちはそれを恐れてはいけません。      あらゆる民族、国家、世界の背後に神様の摂理のみ手が伴いつつ世界は発展しています。名実共に、キリスト教は世界的宗教圏を造って、いわゆる自由陣営を造っています。ここにおいて問題は、昔のイスラエルに帰るような現世になっているということです。現在のアメリカは、昔のローマに値します。すると、再臨の主が来られる国家とは、先進国ではありません。  再臨主は、ヨセフの使命を持ってこられます。ヨセフは、エジプトに売られて行って総理大臣になって、ヤコブとその家庭、兄弟すべてを再び救うという、そのような行程を歩んでいます。  ですから再臨主は、絶対に先進国アメリカやそのような所からは来られません。ある所に追われ追われて、そうして神様が救われ、最初から神様による勝利の権限を造られつつ、ある惨めな民族を中心として出発されます。摂理がそのようになっています。

 ですから現世の歴史家は「歴史は回る」と言うのです。歴史はらせん形になって戻ってきます。なぜ戻ってくるのでしょうか? それがぴったり合えば、戻ってはきません。合わないので、再び摂理が回ってくるのです。家庭から出発したならば、次は民族を中心としてその形を結ばなければなりません。民族的には、神様は摂理の年限、数理ということを国家的基準に延長されて、その基準を国家的基準に結ばれます。  なぜならば、個人は家庭に含まれます。家庭が勝利すれば、個人の勝利圏を得ます。ですから、個人の救いの失敗を補うには家庭の救いの完遂を目標とするのです。  家庭は氏族の圏に含まれます。家族が失敗すれば、神様は氏族の勝利圏を継がれます。それで氏族が勝利すれば、家庭と個人の勝利を認めることができるのです。それが失敗すれば、民族の勝利圏を継がれます。民族が勝利することができれば、そこに子女が全部入ります。  国家が国家基準をつくります。国家が勝利すれば、そこには民族圏が入ります。そして世界の勝利圏を造って世界に勝利すれば、そこには国家圏まで含まれます。このようなことをして、深く繰り返し、戻しながら、結ばれる決定基準を造らせて、延長してらせん形を成し、大いなる環境圏に向かって現世の歴史は発展してきたのです。

 それでは、善とは何でしょうか? 最大なる善とは何なのでしょうか? 最高の基準に対して中心性を認め、尽くすのが「最善」です。  宇宙の最高はだれでしょうか? 神様です。「神様にすべてを尽くしなさい! 。これが信仰の第一の心情です。神様の勝利には全宇宙が含まれます。あなたたちが苦労しても、盲目的でもいいから尽くしなさい。ある時がくれば、皆、解決します。その期間においては、あなたたちは自身を犠牲としなければなりません。これが神様の摂理です。「神様が分からない、いるのかいないのか分からない」。これを解明するのが、私たちの復帰原理です。            今の時代において、私たちは叫ばなければなりません。私たちは捜さなければなりません。私たちは求めなければなりません。イエス様に取り継ぐその心情基台を、天から再び授けられなければなりません。その希望は、自分と関係を持たなければなりません。その心情を、自分との誓約基準に置かなければ、神様の希望、神様の心情の基台として、神様は自分に働かれることができないのです。  その再出発することのできる基準が、地上に再び現れてこなければ、地上を神様の摂理の中心として収拾することはできません。これが歴史の問題であり、現在における世界的な問題であり、今後、私たち子孫の求めるべき将来への問題になっているということは、あなたたちも分かりません。

 イエス様は、今から二千年前に抱かれたその心に、そのような数多くの希望、数多くの教え、数多くの目的観念を持っておられました。生活の勝利の圏、あるいは民族の勝利の圏、国家的勝利圏、世界的勝利圏が、その心情にかかっているのです。  しかしサタン世界において、結実したい希望や目的をいったん言葉で表現するならば、言葉に対してその言葉の価値の実体的存在が立たない以上、その言葉はサタンのものになってしまいます。ですからイエス様は、言うに言えずに、その希望的理念を再び抱いて帰られなければなりませんでした。そのイエス様のつらい心を、私たちは知らなければなりません。それをユダヤ人は知らず、侮辱します。盲目的であり、何も知らなかったのです。

 私たちは呼び、叫び求めなければなりません。神様の求められる最高の勝利の基準は、世界圏にあるに違いありません。数多くの先祖が失敗し、数多くの人々が悩みのどん底に陥っているのを見詰めて、わが民族、国家を、いかにしてこの基準を全うすることのできる国家とならせるのか?   神様のみ前に、民族を背負いつつ涙を流して切に訴えるような、その祈りの主人公たちが必要です。そして祈りだけではなく、責任を持つ人でなければなりません。再臨主が来られる前に、イエス様の心情と希望と目的を完遂する基台がなければなりません。ここで再び洗礼ヨハネの存在が問題になっています。再臨主は来られます。来られるに違いありません。しかし、来られたけれども待つことのできる基台がない場合には、そこには苦労が伴うのです。

 第一、第二、第三を基準として、歴史は円形をなして出発することができるというのです。二点を通るものは、一線です。一線にはなりますが、それ以上にはなりません。  天地創造の出発基準として、神様は何を決定されたのでしょうか? 三点を決定し始めたことが、宇宙万物の創造の妙味を備える基盤となりました。ですから三数が問題なのです。理想圏は三数を伴わなければなりません。  第一のアダム、第二のアダムは失敗したけれども、何を取り継いでくるのでしょうか? その実体を取り継いでくるよりも心情的内容を取り継いでこなければなりません。肉体を取り継いで来るのではありません。神様による心情、神様の目的にかなう心情を持ち、第一、第二のアダムの目的を取り継いで、第三アダムは現れます。これがメシヤです。

 再臨主が雲に乗って、天使のラッパでやってくるという、そのような形で成すのであったならば、神様は六千年どころか六日もかかりません。原則の神様であられます。原理・原則を中心として、万物を創造された神様が、ご自分から原理原則に逆らわれることはできません。そのような「正」、そのような「善」はありません。  ですから、その原則は絶対的原則であり、その原則の歩調に一致しなければならない父ご自身の立場なのです。私たちは今から、原則環境を造り、原則自体を再び求めていかなければなりません。原則自体の姿、イエス様ご自身こそ、その実体です。そのかたに従わざるを得ない天の原則の基準が、地上に立たなければなりません。

 ですから今、このような立場に立った私たちには、天宙の中心に立たれたイエス様の心情と、神様の歴史的希望と、私たちの使命ということが残っています。それに対して、あなたたちはどのような覚悟を持っていますか?   私たちは、イエス様がゲッセマネの園において祈られたような心情の境地に入らなければなりません。十字架上において神様に最後の祈願とともに万民の赦しを求められたイエス様のその心情の境地に通じなければなりません。これをなそうとするのが、私たち統一教会なのです。            しかし私は、教会とは思いません。道場です。再創造する仕事場であり、職場です。成らないものは切ってしまいます。自分自身を中心としたあらゆるものを皆削って、神様に逆らわずに従うような、要件にかなった、そのようなものを造らなければなりません。そのためには、足が長い者は切らなければなりません。目玉が二つあっても、必要ならば一つを引き抜かなければなりません。人間には、蕩減条件ということが残っています。霊的に見ると皆、残っています。ですから六千年間かかったのです。  「おお、若者たち、君の希望は何か?」。「先生の話を聞いてから、自分がその立場に立って、イエス様の大いなる使命を全うし、やります。うれしいです。はい、やります」。  言葉は簡単です。しかし、本当にあなたの腹を切りますか? イエス様は、その気持ちになられました。しかし、それは負けてではなく、勝利した結果、その境地に立たなければなりません。  ですから私たちの信仰生活は、死んで審かれる道ではなく、生きて審いて行く道であるということをはっきりと知らなければなりません。聖書にもあります。「手が罪を犯したら、手を切ってしまえ。目が罪を犯せば、目を取ってしまえ。不自由な身になっても、天国に入ったほうがかえってよい」と。  イエス様の弟子たちは、イエス様のことを「わが先生は、世界的な先生である」と言ったでしょうか? 「天から遣わされた主である」と、そのように言ったに違いありません。しかし、「待てーっ」と言います。だれが言うのでしょうか? サタンが言うのです。  「あなたは、イエス様と一致することができるか! イエス様はこのように行かれた。あなたはそのように行くことができるか! 。「いいえ」。「ならば、下に行け!  これが勝負の決定圏です。私たちの信仰は、観念的信仰ではありません。生活圏において生活を中心とする、神様が必要とされる信仰です。生活圏が含まれる神様ではなく、生活圏内に入る神様を必要とします。そのような、生活圏を中心として動くこと、それ自体が問題です。そうすると、神様まで安息させることのできる、そのような人物とならざるを得ません。結論はそうです。

 そうすると、神様は六千年間、救いの目的を完遂なさることができなかったすべての責任を持たれるのでしょうか? そうならざるを得ません。今まで、先生の戦いはそれでした。あるときはこのような祈りをしました。  「神よ、六千年間の神様の摂理におきまして、あらゆる罪を犯し、背いてまいりました。どうぞ六千年間を六日間にして我に背負わせてください」  また、「三十二億(の人類)と今まで霊界に行っているすべての先祖の代わりに、サタンすべては機関銃を向けて我を打て! 生命だけは残し、あとは片輪になってもどうでもいい。一生どうなってもいいから、我を打て! 。そのような祈りをしました。そのようにして条件を立てるよりほかに道はありません。今でもそうです。  三十二億の全人類が、「ああ、あの先生が来た。あれは世界的大波だ。みんな早く来い。そうしてぶつかってのみ込め! やってしまえ! と言ってやってきても、そうして消すこともできず、のみ込むこともできなかったとしたならば、そこから反対になってしまいます。のみ込まなければ、逆に消されてしまいます。それは先生の考え方です。

 ですから、大きい目標を持つときには、出発前にみな、第一、第二と計画を立ててやらなければなりません。一年の成功を望むのであれば、一年の主人にしかなりません。千年の成功なら千年。数億年の成功を願って、数億年分の苦労をすれば、数億年の勝利者になることでしょう。  一日だけ働いて、それでいい気になって、目を丸くして「ああー、いいなあ」と満足する。先生はそのようなことは大嫌いです。「彼は踊って喜んでいても、何かいつも荷物を持っている」と言われるような、いつも何かを持ち、背負っているような姿であるべきです。

 生涯において十字架をだれよりも背負って行く。民族の十字架がまだ残っています。世界の十字架が残っています。「それに侵入せよ! 十字架圏に侵入し、占領せよ! 早く占領せよ! 。その占領した主が来られたならば、この十字架圏を造っているその者との一騎打ちになります。それがもしも神様の最高の敵であったならば、その敵を迎え、最後の決着をつけるのです。これは実に面白い。  あなたたちがもう少し人格を錬成し、もっと精鋭部隊となって日本を動かすようになれば、そのようなあなたたちを先頭に立てて世界的、霊的戦争を始めます。銃や大砲を持って戦うのではありません。戦う秘訣をあなたたちは持っています。「心情砲弾を打て。希望砲弾を打て。信仰砲弾を打て」。イエス様は、はっきりとそのように言われることができました。           現世において、宇宙の中心であるイエス様を思うとき、あなたたちは何をしたらいいのでしょう? 皆はよく、「償いのために十字架を負われて死んだことを思うと、悔しくてたまりません」と言います。  何が悔しいのか? その証明書を見せなさい。あなたたちは、最初にどこから証明書をもらってくるのか? 「私はこうなった、このようなことをした、これが勝利の証明だ」と、自分自身で書くことはできません。だれが書くのでしょうか? 最初にサタンが書くのです。神様は書かれることができません。サタンが、その勝利の証明書を書かなければならないということをイエス様もよくご存じでした。  ですからイエス様は、三年公路の出発のときに四十日間サタンを呼び出して、証明書を書いてもらう戦いをされました。それが三大試練なのです。サタンは言います。「あなたは民族で勝利している! 証明書を書かざるを得ない。書かなければ、自分の活動舞台をみんな天の方に即日ささげなければならない」と。  そのようにサタンに証明書を書かせて、それからイエス様の証明書をもらうのです。それから神様の証明書です。この三つの証明書が必要であることを分からなければなりません。

 イエス様を信じ、日曜日に教会に行って讃美歌を歌ってお祈りをし、それで「天国行きの特急の切符をもらっているのだから安心である」と思っています。そうして礼拝のときに居眠りをしていて、天国行きのお客の気持ちでいます。それはめでたいことです。自分は、そうなってはなりません。  この礼拝の時間というものは闘いです。一騎打ちです。眠る、そのような者がいたならば呼び起こしなさい。イエス様がペテロに言われたように、「サタンよ、退け」と。脇腹へ一発、打ち込め! それが愛です。先生は、礼拝に眠る者があったならば、そのままではおきません。

 「過去・現在・未来は我を呼ぶ」。そう思いますか? 過去・現在・未来は「私」が必要です。日本において、「私」が必要です。それなのに「どうしてこんな顔になっているのだろう? ちょっと横にゆがんでいる。もっと卵形であったらいいのに、どうしてこんなに丸いのだろう」などと考えます。それを心配してはいけません。  外的に悪くても、内的には百パーセントの円満なる基準を備えることができる良心的世界があり、心的世界があり、情的世界があるということを忘れてはいけません。自分の手を見れば、「あの人の手はあのように美しいのに、どうして私の手は、こう牛の前足のようなのだろう?」。この手は見苦しいけれども、この手によって神様を泣かせ、神様の道を開拓し、神様を慰めるのならば、それで満点です。

 あなたたちは、このようなことを感じたことがありますか? 天の父のことをずーっと思うと、急に涙がポロポロ、と流れて泣きだし始める。どうにもたまり切れない。心情的に接すると涙が出てくる。  そのように、アダムの家庭に入れば、特に女性であれば、「私は罪を犯したエバ、それ自体です。神様の前に立って、ひざまずく哀れなエバの存在です。そこに救いの道が一つでもあるのならば、そこにおいて自分の犯した罪を赦してください」と言う、エバそのものにならなければなりません。アダムであれば、自分の主管権限を全うすることができず、天地創造の原則の基準を転覆した罪人であることを悔い改めなければなりません。そうして神様を慰め、勝利の決定権を立てて、神様に命令を願わなければなりません。            「ノアやアブラハムやモーセや、イエス様の十二人の弟子の歩んだ道、またゲッセマネやゴルゴタの道を自分が行くか?」と自問自答するのです。そうすれば、「我、行かざるを得ない」。十字架で行かれたかたは、十字架を通して来られます。ですから、「この道は、自分が行かなければ、そなたが来られる道が遠いに違いない」と思って、一歩でも慰め、休ませんがために「我は先に行く」というのです。そこに苦労を伴うのは当然です。

 日本の一億国民を中心として見たときには、いずれにせよ、この蕩減を越えなければなりません。ですから、「わが愛する友よ、この道を行かなければならない。長い障害の多い道だから、それらを早く乗り越えて行かなければならない」と言って乗り越えていくのです。  それには犠牲が必要です。真なる犠牲、過去・現在・未来を通して得たその犠牲心を持っていくのです。もしもイエス様が、そのような希望で行かれなかったならば、歴史はその方向に一致していきません。一致していかなければ、このような世界圏を造ることはできません。  思いもしないことは、自分と関係を結ぶことができません。責任を持たないものは、自分のものになり得ないのです。責任をもって戦って、その結末をつけなければ、自分のものになりません。イエス様は責任を持たれました。それから、神様の要求されることは何でもされました。  イエス様の肢体がむち打たれ、額が痛めつけられる。そのような中にあっても、イエス様は神様に言われました。  「神よ、我を見て悲しまないでください」。これがイエス様の心情です。  「おお、神様よ、我は悔しい。この悔しくする者を即座に、審判をしてしまえ! 。あなたたちであったならば、このように思うことでしょう。イエス様は、そのようなことは言われません。

 イエス様は、そのような心情で逝かれたのですから、その弟として立ち、今の新婦の時代を過ぎなければなりません。イエス様の兄弟とならなければ、兄弟と言える資格はありません。ゲッセマネとゴルゴタの山上には、世界的ゲッセマネが残っています。  イエス様が、「神様のみ意でなければ、この道、この杯を過ぎ去らせてください。しかし、わが願うところによらず、神様のみ意に沿うようにしてください」という祈りをされた、その気持ちをあなたたちも通過しなければなりません。日本に対して、そのような責任を持って祈ったことがありますか?

 天使界は、アダム・エバに協助しなければなりません。ですから、アダム・エバは天使長を動員して、アダムを中心とした神様の生活圏において、満足圏を果たさなければなりません。それと同じように、私たちは霊界を動員し、天使界に命令して協助させるようにして、そうして神様が喜ばれる生活圏を持って行く、あるいは生活するというような者にならなければ、復帰完成の基盤を環境において造ることはできません。これが原理です。

 イエス様は、その位置を求められました。しかし、そこには自分の家庭、自分の氏族……。本当は、洗礼ヨハネを中心とするのではありません。もう少し言いたいのですが、そのようなことは聖書にはありません。そのことが分かりたければ、教えます。教えて気に入らなければ、ひざまずいて祈ってみる。祈ってみれば解決することができます。  あなたたちは、そのような関係でもってイエス様を訪れ、イエス様の弟となり、またお兄さんにもなります。あるいは、必要であれば花嫁のようにもなるのです。そうなるには、休むに休まざる苦労を乗り越えなければなりません。  イエス様が、三十年間準備された時代と三年の公生涯時代、このような過程を通られたように、先生も今、そのような圏を通っています。何年から準備時代、何年から実践時代、それから何年から何年までは成就時代などとなっています。ですから、先生の言ったことはよく合うのです。先生がポチポチと、こう動けば世界中が動きます。なぜそのようになるのでしょうか? そうならなければなりません。今までの果たしてきた功というものは、歴史的、時代的であり、未来的です。それは何を中心とするのでしょうか? 神様を中心とするのです。           私は人が恋しいのではありません。皆さんが恋しいのではありません。私の恋しがるのは、皆さんの顔よりも、皆さんの行く道が恋しいのです。神様がイエス様に対して恋しく思われたのは、イエス様自体よりも、その行く道でした。個人の行く道、家庭の行く道、氏族の行く道、民族の行く道、世界の行く道。  イエス様が、その道を行かれたとしたら、どうなっていたでしょうか? イエス様がもし、家庭基準において世界的勝利者になられたのならば、どうであったでしょうか? イエス様がもしも結婚されたのならば、どうなるでしょうか? その子供を神様の子孫として認めるか、認めないか? 認めるでしょう。  そうすれば、イエス様が亡くなられても第二のイエス様はあったに違いありません。そして、その子孫が民族となり、それを中心として人類全部が神様を中心としたならば、それはどうなるでしょうか? カインとアベルの蕩減条件を立たせれば、世界は天国になります。

 もしもユダヤの民に、そのような理想が分かっていて、イエス様の心情の意向を理解し、イエス様の前に行って、「神様が願われるのに、あなたはこうでなければいけないではないですか?」と言う乙女が、もしいたならば、どうなったでしょうか? 先生はそのようなことを考えます。どうなったのでしょう?   イスラエル民族をもって、イエス様を中心に世界圏を造ろうと言えば造ることができます。アダム・エバの基準が創造本然の基準ですから、絶対的に合致して、神様と三位一体となればできます。  このようなことをキリスト教会に教えたならば、目を丸くして追い出されてしまいます。しかし、私たちはそこまで真剣に考えなければなりません。考えなければなりません。考えないところには、悟ることがありません。悟っていかないところには、神様のみ恵みのみ手が伸ばせません。イエス様自身も、そのような責任を持たれ、十字架の道でも堂々と行かれる気勢を持って、サタンを克服し、世界を再出発させる福音の主であられたのです。           あなたたちにこのような話をするのは何のためかというと、あなたたちがそのような目的を再び立てて相続し、これを現世に、まずあなたの家庭に、あなたの氏族に、あなたの民族に、あなたの国家に広めていかなければならないからです。神様が、あなたたちを必要とされるのは世界のためであり、日本のためです。神様は選民を必要とされます。それも氏族から民族、国家と。ですから、第二イスラエルの選民権を復帰しなさい。復帰するには、イエス様のもともとの希望を中心として復帰しなければなりません。なぜでしょうか? イエス様が来られて、それを完遂されることができなかったからです。イエス様を中心とした歴史的供え物、三大供え物を歴史的蕩減として立てる道がふさがれていたのです。

 ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、三人の弟子のうち、ペテロは信仰の代表者、ヤコブは希望の代表者、ヨハネは愛の心情の代表者です。ですから、もしもヨハネが死んだのならば、キリスト教の歴史が切れてしまいます。それが生き続けたので、ユダヤ民族の歴史的心情のつながりの基準を、イエス様の祈りを果たすことのできる基準を地上に残すことができたのです。そのことは皆、分かりません。  ですから、ペテロは信仰の代表者、ヤコブは希望の代表者、ヨハネは愛の代表者であり、この三人の弟子がゲッセマネにおいて、イエス様と同じ希望、同じ信仰、同じ心情において、祈るときも同じく祈ることが、イエス様の希望でした。  イエス様が十字架につけられるときに、その左右には強盗も共に十字架につけられました。これが、人類歴史のいちばん悲惨な場面です。最初にイエス様とともに楽園に行った人は、右にいた強盗でした。かわいそうな話です。ペテロは、その第一弟子の使命を果たすことが、その位置を占めることができませんでした。その時代における人類の代表的実体として、神様の前に立つべき三大供え物としての三人の弟子が、行くがままに気ままに行ってしまったのです。

 それでイエス様は、死して再び彼らを導かれて、四十日復活期間を通して勝利圏を造られました。キリスト教は、十字架を通してでなく、復活を通しての救いです。十字架は悲しい条件です。もし復活がなければ、キリスト教の始まりは果たすことができません。  ですから、先生が世界一周したときに、多くの十字架を見ながら、「わが使命は、その十字架を切ってしまうことである」ということを再確認しました。私たちの弟子を通してでも切ってしまいます。キリスト教は十字架の道理でなく、復活の道理です。その意味においてイエス様は、ささげものをささげられずに、未来の希望の条件としてゲッセマネを越え、カルバリを越えて行かれました。

 それでは、未来のささげものはだれが立たせるべきでしょうか? これが、再臨の時期における第三イスラエルであり、第一アダムの過ちを正し、第二アダムの過ちを正す責任を持たなければなりません。第三イスラエルは、第一、第二イスラエルの失敗した基準、すなわち現世において自分自身を中心として、イエス様当時に完成すべき条件を完成して、三大供え物を決定し、サタンと対決して勝利の基盤を造らなければ、善なる父母の立場に立つことができないのです。これは、統一教会で教える原理です。  イエス様は、三人の弟子を失われたために、いかにしても亡くなられるしかありません。さらに、もしも三大弟子がイエス様とともに死んでいたのならば、神様はイエス様を復活させるときに三大弟子も共に復活させられました。そうすれば、キリスト教は苦労の道を行きません。

 このような歴史的な過去を振り返ってみると、現世における第三イスラエルの事情を受け継いで、勝利の先頭に立って大勝利をし、世界に対して神様が悩まれる心を慰め、私たちの周囲、私たちの国家を慰め、そして自分が神様の身代わりとなって命令することができるような基準を現世に造れば、地上天国は、あなたの立っている環境から造ることができます。それを成すことが、イエス様の願いであり、神様の願いであり、先生の願いです。  ですから先生は、その基準で一生涯を戦っていきます。その戦いに休んではいられません。日ごとに、戦いは熾烈に猛烈になってきます。世界的発展をなすことに伴う原子爆弾が生じてきました。一発打てば、それで最後になってしまうような限界の戦いを展開しなければなりません。  霊的戦いを中心に、思想的圏内に基準を造って、私たちは世界に唱えなければなりません。どうか日本にいる者として、日本を中心として、世界を動かすような勝利的使命を全うできるようにと、切に切に願うものです。

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