アフガンの大地に注いだ希望の一滴!
「先生、これで生きていけます!」
餓死の恐怖が去り、今や胸をはって生活できる確信を得て人々は狂喜した
中村哲(1946~2019)
プロフィール
信条「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく、誰もしないから、我々がする」
「議論は無用、実行あるのみ」「一隅を照らす」
医師・ペシャワール会現地代表・PMS(平和医療団・日本)総院長・九州大学高等研究院特別主幹教授等を歴任。叙勲は旭日小綬章他・アフガニスタン国家勲 www3.nhk.or.jp 章・アフガニスタン名誉市民権・ マグサイサイ賞他33を受賞
1946年 福岡県福岡市生まれ。西南学院でキリスト教受洗。愛読書は「後世への最大遺物」 (内村鑑三)
1973年 九州大学医学部卒業(脳神経内科)
1984年 パキスタン北西部ペシャワールミッション病院に赴任。ハンセン病患者の診療にあ たる
1986年 難民キャンプでの医療活動開始。アフガン難民のための診療所開設
1991年 アフガニスタン国内に最初の診療所設立
1998年 PMS基地病院を設立
2000年 アフガニスタンで大干ばつが発生。井戸を掘る。2006年までに1600か所に井戸を 掘る
2001年 9月11日米国同時多発テロ勃発。アフガン侵攻の空爆下で食糧配給
2003年 「100の医療所より一本の用水路を」をモットーに用水路建設に着手
2010年 マルワリード用水路完工。モスク・神学校も建設
2019年 ガンベリ砂漠に用水路を建設し、総じて65万人を救済。アフガニスタン名誉市民
はじめに
2001年9.11米国同時多発テロ勃発以降、報復のために容赦のない空爆が繰り返されたアフガニスタンの地!その受難の大地に、もう一つの惨事、世紀の大干ばつが襲いました!豊かな実りをもたらしていた農地が一木一草も生えない砂漠に変貌し、人々は飢餓難民の群れとなって、故郷を離れざるを得ませんでした。一夜のうちに村々が消えていったのです!
それまで、医師として、アフガンの人々の生命に寄り添いながら救援活動を行っていた中村医師は、二重の困難にあえぐ現地の人々にとって必要なものは、水と食糧であり、なかでも「水」の確保が第一必須要件であることを痛感しました。以来、「100の診療所をつくるより、一本の用水路」を合言葉に、2003年より「緑の大地計画」(東部クナール川流域とガンベリ砂漠)に着手し、2019年、遂にその完成をみるに至りました。16500ヘクタールに及ぶ絶望の大地を一大緑地へと蘇らせ、65万人の命を救ったのです。
この衝撃的な証は、世界の良心が注目するところとなりました。平和世界への「道を照らす道標」になったのです。中村医師の生き様は、今もなお世界の良心を、平和への願いに向かって熱く湧き立たせ、揺さぶり続けています。本誌は、「終わりなき紛争の地」といわれた、激動のアフガニスタンの現代史を紐解きながら、その渦中で、そしてそこを終焉の地として闘った中村医師の、人類愛の軌跡をより深く理解できることを願いながら筆を進めていきたいと思います。そして、私たちもまた、熱い心で平和世界実現を願い、更に力強く前進していきたいものです。今まで未解決だった課題の集積が、世界各地で、日本で、マグマのように噴出する今のこの時、この一片の記事が、「平和のためにいかに行動すべきか」を考える私たちの糧となり、前進のための刺激となることを祈念いたします。真の内容は膨大深淵すぎて、限られたこの紙面で表現できるのは氷山の一角にしかすぎないのですが。。。
マルワリード用水路の開通式、モスクと学校の完成式を祝う(2010年)Afgan Red Crescent Society
「経済的な貧困は必ずしも精神の貧困ではない。識字率や就学率は必ずしも文化的な高さの指標ではない」(中村哲)
「金がなくても食べていけるが、雪がなければ食ベていけない」
アフガンは雄大麗美な国、万年の雪をいただくヒンズークシ山脈がもたらす大自然の荘厳さ
は、古くから旅人を惹きつけてきた。中村哲医師は、1978年(当時32歳)、山岳隊の同行医師として、このヒンズークシ山脈に分け入ったことがある。その時に中村医師が抱いた現地への愛着と召命感は、その後の中村医師の人生を方向づけたようだ。
中村医師は、その時の体験を、中村哲・アフガン最期の言葉「希望の一滴」の中で次のように語っている。「一目でハンセン病とわかる村民に追いすがられながらも、見捨てざるをえなかった。これは私の中で大きな傷となって、キャラバンの楽しさも重い気持ちで半減してしまった」。1984年、パキスタン北西部のペシャワールのミッション病院に赴任。ハンセン病患者の診療にあたるようになる。この時の心境を「医療に恵まれないパキスタンで一粒の麦になりたい」「あまりの不平等という不条理に対する復讐でもあった」と述懐している。
中村医師は、2016年8月に福岡で開催された日本記者クラブでの講演の中で、アフガニスタンについて次のように語っている。
「中国を越えてヒマラヤ山脈を西へ西へ行くと、そこがアフガニスタンです。乾燥した中東世界の一部、世界の屋根の西側にあたるヒンズークシ山脈がアフガニスタンの国土の殆どを占め、立ち並ぶ6000~7000m級の山々がアフガン人の生命線です。現地に、『金がなくても食っていけるが、雪がなければ食っていけない』という諺があります。9割近くの国民が農業で生計を立てており、殆どが自給自足の農民です」
「なぜ、そんなに多くの人口を養えるのかというと、それは白い山の雪のお蔭なんです。何万年もかけてできた氷河や普通に降り積もった雪が、夏に少しづつ溶け出して川沿いに豊かな恵みを約束し、人も動物も植物も、何万年、何十万年をかけて命を繋いできた場所です。雨は殆ど降らず、降雨量は日本の約20分の一。かつてアフガニスタンは、100%近くの食糧自給率を誇る農業国でした。しかしこれが壊滅状態近くになってしまったのです!」
2021年8月米軍撤退以降、 国民の半数以上が急性食糧不安に陥った
現在、WFP国連世界食糧計画はアフガニスタンについて、「急性食糧不安に陥っている人々は2280万人(国民の半数以上)。緊急レベルの食糧不安に直面している人々は870万人」と警鐘乱打し、次のように訴えている。
「(2021年8月)タリバンがアフガニスタンの政権を掌握してから、信じられないような規模の人道的危機がさらに複雑で深刻になっている。失業・現金不足・物価の高騰により新たな飢餓層が生まれている。急性栄養不良は34州のうち27州で緊急事態の基準値を超え、今後12か月間で5歳未満の子どもの約半数、妊娠中・授乳中の女性の4分の1が命を救うための栄養支援を必要としている」
「我々人間は、地獄の淵に立っているのか、終末的なアフガンの現状が世界に及ぶかは、その時になってみないと分からない」(中村哲)
なぜ「地獄の淵」「終末的」になったのか
中村医師は「アフガニスタンは気の毒な国」と語る。海洋国家日本で育った私たちにとって、アフガンの歴史と現状を理解することは容易ではない。
今も私たちの記憶に新しい、2021年8月に起きた米軍のアフガニスタン撤退時の惨状の一コマ一コマ!アシュラフ・ガニー大統領は国外逃亡し、あっという間に政府は瓦解した。政府関係者は旧タリバン政権の悪夢から逃れるために、アフガン脱出に生命を懸けた。タリバンはその時までにほぼ全土を制覇。カブールを占拠し、「アフガニスタン・イスラム首長国」(タリバン暫定政権)の成立を宣言した。しかし世界は、その政権を正当な政府として認めない。旧タリバン政権の過去の統治と現統治、国際テロ組織との関係、女子教育や女性の権利等の人権問題などが不透明であるとして、世界は経済制裁を課している。塗炭の苦境に陥っているのは、ひたすら末端の国民たちである。
この課題に対する答えを残して、中村哲医師は逝った。。。 👆 kitaq.media
「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく。誰もしないから、我々がする」(中村哲)
200万人が戦争で死亡、600万人が難民化
中村医師は当時のアフガニスタンについて次のように語っている。「アフガンは英国と3回も戦火を交え、戦後はソ連軍の侵攻(1979-1989)があり、15~16年前には欧米軍の侵略(2001-2014)があり、ずーと戦乱が続きました。私が赴任した当時(1984年)は、戦争たけなわの時期で、この戦争で死亡した人が200万人、国民の一割が死亡、さらに600万人が難民となって叩き出されるという状態で、私たちも医療という立場からこのアフガン問題に巻き込まれていきました」
ここで、アフガンの近代史についてみてみよう。
アフガニスタンの歴史
繰り返された軍事クーデター、止むことのない紛争
アフガニスタン北部の大都市マザーリシャリーフにあるブルーモスク crea.bunshun.jp.
アフガニスタンは18世紀に独立した王国。19世紀に英国対ロシアの激しい勢力争いに巻き込まれ、アフガンは英国の保護国となってしまった。1919年に英国に対して第三次英ア戦争を開始し、その時、かろうじて「アフガニスタン王国」の独立を回復。1921年には、ソビエトと友好協約を締結した。以来、2004年の「アフガニスタン・イスラム共和国」成立に至るまでの85年間、戦争や紛争が繰り返され、国名は7回変更された。2021年のタリバン暫定政権を加えるならば、国名の変遷は実に8回に及んでいる。紛争期を次の3つにわけることができる。👆cnn.co.jp
① 1978年~1989年:共産主義政権「アフガニスタン民主共和国」の成立。ソ連のアフガン侵攻。それに対するイスラム勢力の抵抗
② 1989~2001年:ソ連のアフガン撤退と「アフガニスタン・イスラム国」成立。この間にタリバンが出現し、1996年「アフガニスタン・イスラム首長国」の成立を主張し実効支配。しかるに国際テロ組織アルカイダとの関係で世界から孤立
③ 2001年~2021年:9.11米国同時多発テロ勃発。アルカイダのアフガン潜入と米国・有志連合軍によるアフガン侵攻。2021年の米軍・有志連合軍の撤退後、現在に至る
関心ある方のためにもう少し詳しく見てみよう。
(1)1978~1989 共産政権成立とイスラム勢力の抵抗
1978年 社会主義政権「アフガニスタン民主共和国」が成立
1917年にソビエト連邦が誕生。他の近隣諸国と同様、アフガンもソ連の影響下に入った。1973年、アフガンではソ連急進派のM・ダウドがクーデター起こし、王政を廃止。「アフガニスタン共和国」 (1973年-1978年)が成立した。続いて1978年4月、更に急進的な共産主義者‟アフガニスタン人民民主党„がクーデター「四月革命」を起こし、ダウド一家を殺害。社会主義政権「アフガニスタン民主共和国」が成立した。(この政権はソ連と同盟関係を結び1992年まで存続)四月革命後、M・タラキが大統領に就任した。(この間の1988年に、国名は「アフガニスタン共和国」に戻されている)。
社会主義政権は宗教弾圧を開始
イスラム教派が武装蜂起して抵抗、1979年ソ連がアフガン侵攻
👇 news.yahoo.co.jp
1979年9月14日、社会主義者H・アミンが再びクーデターを起こして革命評議会議長(大統領)に就任。アミンは宗教弾圧を開始。これに反発したイスラム教派「ムジャヒディーン」が蜂起。これを受け、ソ連は1979年、親ソ派政権を支援する名目でアフガンに侵攻。イスラム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗したが、ソ連軍の駐留は10年間に及んだ。しかし闘いは泥沼化して失敗し、1989年に なるとソ連は撤退した。 👇 ameblo.jp
この時期にソ連と戦った主なイスラム反政府勢力は、「ムジャーヒディーン」(イスラムの戦士)と称し、対ソ戦を「ジハード」と位置づけた。ムジャーヒディーンは、民族ごとにその勢力が分かれており、多数派を占めるパシュトゥーン人スンニ派の「イスラム党」、マスードを司令官に置くタジク人スンニ派の「イスラム協会」、ウズベク人スンニ派主体の「アフガニスタン・イスラム運動」、そしてハザラ人(シーア派)率いる「イスラム統一党」があった。
なぜ、イスラム社会は民族ごと、勢力ごとに分かれているのだろうか。
中村医師はアフガニスタンの国の特徴について次のように語っている。「多民族国家ということです。過度の中央政権制でなく緩やかな首長国連邦です。これが我々には理解しにくい点です。我々が国家と言うとき、選挙で選ばれた政府が国会で何事かを決定して、全土に法律が行きわたる法治国家を想像しますが、アフガニスタンはいかなる意味でも、近代国家とはほぼ遠い状態です」
👆山岳地帯を越えて、投票箱を運ぶ人々 news.yahoo.co.jp
「山の国で山が深く谷と谷が離れています。古来、「民族の十字路」と言われてきたように、多様な人種が谷ごとに住んでいます。各地域が一つ一つ、各地域そのものが国であって、それを束ねたのがアフガニスタンなのです」
「アフガン人の100%近くが敬虔なイスラム教徒であり、しかも世界で最も古典的かつ保守的なイスラム教です。法治国の体制がない中で、どうやって農村の秩序が保たれるかというと、これは色々なもめ事を、日本でいえばお寺、キリスト教でいえば教会ですが、アフガンではモスクですが、このモスクが地域と密着しており、ここで話し合いが行われ、事が収まるという完全な自治の世界なのです」
「アフガン人にとってイスラム教とは人間の皮膚以上に密接なもので、生活の隅々までを律する精神文化です。‟ワタン(故郷)とカオミ(血縁)が社会の全て„と評されるほど、部族社会の様相を色濃く反映し、閉鎖的な農村は自治制が強く、実態は外部に伝わりにくいのです」
(2)1989~2001 ソ連のアフガン撤退とタリバンの出現
1989年以降、戦乱はやまず、イスラム各派は抗戦を継続
ムジャーヒディーンの抵抗を受け、当時のソ連大統領ゴルバチョフは、1988年に関係国との間で和平協定に調印し、1989年、アフガンよりソ連軍を撤退させた。そしてソ連邦自体が1991年に崩壊したのだった。
しかし、ソ連軍撤退後もアフガニスタンで戦乱は止むことはなかった。ムジャーヒディーン各派は、当時のナジーブッラー政権がソ連の傀儡政権であるとして、今度は政府に対して抗戦を継続した。1979 年のソ連軍の侵攻から1989年までの10年間で、ソ連軍の死者数は1万4500名、アフガン人の死者はおよそ100万人と推定された。実際にはこれより多いといわれている。アフガンの難民総数は、1990年12月の時点で630万人に上ったという。中村医師赴任中のできごとである。
1992年、「アフガニスタン・イスラム国」が成立
イスラム各派閥間の交戦により首都は廃墟化、タリバン出現
ソ連邦崩壊後、1992年に新政権「アフガニスタン・イスラム国」が成立(1992年 ~ 2001年)。しかし紛争はそれで収束したわけではない。新政権樹立に向けて合意があったにも関わらず、多数派を占めるパシュトゥーン人スンニ派の「イスラム党」が異論を唱えたことが契機となり、各派間で交戦状態に陥り、首都カブールは廃墟と化した。無差別砲撃が加えられ、カブールだけでも5万人以上が死亡。数十万人が難民化したという。 👇robertnickelsberg.com
この時期、法手続きを踏まない刑の執行、拷問、政治的拘留、失踪、不公平な裁判等がアフガン全土で行なわれたという。暫定政権の影響が及ばない地方では、各軍閥が支配地域を独自に統治し、イスラム法に基づきながらも恣意的な基準で裁判を行なった。しかしながら、タリバン支配によって、一部地域を除いて一応の戦闘が終結したため、難民の帰還はこの時期に進んだ。中村哲医師は、「1996年頃、タリバン政権が登場し、その評価は別として、あっという間に治安が回復され、最も活動しやすい時期でした」と語っている。
「アフガン攻撃」と「世紀の大干ばつ」、避難民が急増
1998年当時、アフガン難民数は約260万人台で停滞。帰還が進んだにもかかわらず、一方で「新たな難民」の流出が進んだ。それは、当時、この地域を襲った「世紀の大干ばつ」が原因である。干ばつにより、農民は農地を失い、国内避難民は急増。また、2001年の米国によるアフガン攻撃は、大干ばつをのり越えるための緊急人道支援が必要だったアフガンの人々にさらに追い打ちをかけた。(この時期、中村医師は、干ばつに対処するために1600か所に井戸を掘り、日本からの支援を受け、空爆下、命がけの食糧配給を行っている)。今回は、紛争によるものではなく干ばつによる難民化だった。2001年12月の時点で、難民の数はおよそ450万人。主にはパキスタンとイランへ避難している。 👇 117kirei.jp/afpbb.com/afpbb.com
ソ連の崩壊によって「東西対立の代理戦争」という枠組みが消滅した一方、その後のムジャーヒディーン各勢力間の戦闘は、「アフガン民族間の紛争」という側面を露わにした。これについて、識者たちは次のような問題点をあげている。「大国や周辺諸国が各々の思惑と利害のために、ムジャーヒディーン各派をそれぞれが支持。アフガン紛争は他国の干渉のもとで継続してきた」「イスラム教の伝統的な要素や市民社会の未成熟さ、一つの国家としてのアイデンティティの不足が、紛争の原因となっている」
民族紛争が泥沼化する中、1994年にタリバンが出現する。
1996年、タリバン政権が「アフガニスタン・イスラム首長国」成立を主張
タリバンとは、パキスタンで生まれたイスラム神学校の学生の呼び名。内戦で疲弊したアフガニスタンの国内の治安を取り戻し、安心して暮らせる世の中をつくる目的で1994年に結成された。ところがその中で、イスラム原理主義思想を持った過激な武装グループが育ち、当時の政府(アフガニスタン・イスラム国)と戦うためにテロを繰り返すようになった。
1996年から2001年までタリバン政権は、イスラム法の解釈に則って政治を行い、自由民主主義・世俗主義・西側諸国、特に米国とイスラエルへの反発を増大させた。キリスト教徒・シーア派イスラム教徒・仏教徒・シーク教徒・ヒンドゥー教徒など、スンナ派イスラム教徒に属さない少数派は、宗教的差別や文化的虐殺、その他、様々な形態の迫害を受け、女性や反対勢力も残酷な処罰を受けた。タリ バンは、数多くの記念碑や歴史的遺物を破壊。例えば1500年前のバーミヤーンの仏像を破壊し、世界中から非難を浴びた。 👆 msn.comja.jp/👇msn.comja.jp
👆高さ約60mという巨大なバーミヤンの仏像を破壊。シルクロード仏教伝播の最西端に位置した。
因みに世界のイスラム教徒の数は、世界人口の4分の1の19億人に達している。その内、約90%がスンニ派、約10%がシーア派である。スンニ派は、「モハメッドの言葉を記したコーランとハディース(モハメッドの慣行や行動)を重要視し、それに従っていれば、カリフ(イスラム国家の最高権威者)には誰でもなれる」と考える。一方シーア派は「血統が宿るリーダー」を重視。「モハメッドの資質は、モハメッドのいとこで娘婿だったアリをはじめ、各時代に一人のイマーム(導師)にその血脈を通じて宿る」と考える。シーア派が多数を占める国はイラン・アゼルバイジャン・バーレーン・イラクの4か国のみ。殆どのイスラム教国において圧倒的多数派を占めるのはスンニ派である。
(3)2001~2021 9.11米国同時多発テロと米国のアフガン攻撃・撤退
2001年9.11米国同時多発テロ勃発
米国・有志連合軍によるアフガン攻撃とタリバン政権の崩壊
1998年、ケニアとタンザニアで、国際テロ組織アルカイダによる米国大使館爆破事件が勃発。そのテロリストがタリバン政権の保護下に逃げ込んだ。1999年、米国政府はテロリストの引き渡しを求めたが、タリバン政権がこれを拒否。タリバン政権はアルカイダに安全な避難場所を提供し、テロ攻撃の計画を可能にしていたという。 👇mainichi.jp/swissinfo.ch
2001年、9.11米国同時多発テロ事件が勃発し、約3000人の犠牲者が確認された。ブッシュ政権は「テロとの戦い」を宣言。同年10月、米国・有志連合軍がアフガニスタンを攻撃した。(最後通告として、米国はアルカイダの指導者及び9.11の首謀者を引き渡すよう要求したが、タリバン政権は拒否)。同2001年12月にタリバン政権は崩壊し、「アフガニスタン・イスラム共和国」という国号で新政権が発足した。2004年、同国は新憲法を発布。共和制・大統領制を採用する立憲国家として正式に出発したが、新政権下においても、中央と地方の権力の分配をめぐって対立が継続した。さらに南西部でタリバン残存勢力が活動を活発化。米軍や有志連合軍が駐留する中、首都カブールにおいてもテロが頻発し、治安は悪化する一方だった。アフガン平和への道は見えず、逆に国民の犠牲と受難は大きくなるばかりだった。
2021年、米軍撤退後、深まる混迷、増大する犠牲
食糧難が傭兵を生み出す
👆courrier.jp/bbc.com/fsight.jp
アフガン攻撃以来の20年間、米国国民は史上最長の戦争の意義を見失い、アフガンからの米軍撤退を望むようになっていた。ブッシュ政権とオバマ政権後のトランプ政権は、2020年、アフガンからの米国駐留部隊の撤退計画を進めた。米国・タリバン間の合意は、米国にとって悪い条件下でなされ、さらにアフガン政府の関与なしに結ばれたため、その合意は「史上最も不名誉な外交交渉の一つ 」(外交政策専門家)と呼ばれた。バイデン政権はそれを引き継ぎ、2021年8月、かくも筆舌に尽くしがたい様相で撤退を完了。20年間にわたるアフガン駐留は終了した。その後のアフガンはどうなったのか。周知のとおり、タリバン政権内部の指導権争いと旧態依然とした統治によって、アフガンを代表する政府として世界から認められていない。ただ、ひとえにアフガン国民の苦難は底なし沼のように深刻化するばかりだ。
中村医師は、「治安は過去30数年で最悪になっています。単に武装勢力の暗躍だけでなく、一般の犯罪者も増加。これは干ばつ(食糧難・難民)と切っては切れない関係があると思います。もともとアフガニスタンでは、政治的な意見で人々が殺し合うという事態は殆どありませんでした。食に困れば傭兵となって出ていくというのが普通のスタイルで、アフガンは『傭兵の産地』だったんです。戦乱の背景に干ばつ(食糧難)があるということだと思います」と語っている。
それではいよいよ、中村哲医師の軌跡に迫っていこう。
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「誰もがそこへ行かぬから、我々がゆく、誰もしないから、我々がする」
「議論は無用、実行あるのみ」「一隅を照らす」(中村哲) 👇montbell.jp
中村医師は、1986年、内戦で故郷から逃れたアフガン難民のため、ペシャワール(パキスタン)の難民キャンプに診療所を開設。1991年にはアフガニスタン国内に最初の診療所を開設した。1998年にはPMS(平和医療団日本)基地病院を設立して、日本人スタッフや現地人医療チームと共に、現地の医療活動に献身した。
ところが2000年になると、地球温暖化による地球の異変は顕在化。「世紀の大干ばつ」となってアフガンを襲ったのである。以来、干ばつは繰り返し、その度毎に、人々から農地や故郷を奪い、飢餓による難民が増加していった。水不足と栄養失調が病気の原因であることを知る中村医師は、医療活動だけでなく、「どうしたら一人でも多くの命を救うことができるか」という本質的な命題に向かって働くようになった。中村医師は、「大干ばつ以来、私たちの活動の殆どは、一見医療とは関係のないところに多くのエネルギーを費やすようになりました」と語っている。
「今思い返すと、アフガン大干ばつは
世界を席巻する気候災害の前哨戦であった」(中村哲)
「止むことのない紛争と空爆」という受難だけでなく、2000年以降は、「世紀の大干ばつ」という、もう一つの受難が、アフガンの人々に襲いかかった。。。中村哲医師がその過酷な状況を表現するために選んだ言葉は「終末的な様相」という言葉だ。農地は砂漠化し、人々は生活の基盤を失い、飢餓難民と化す。ある者は家族を養うために傭兵となって、願わざる武器を取る。周辺の村々が一晩のうちに消えていく。悪夢のような実態を中村医師は目撃したのである。 👇nikkei.com
中村医師は次のように語っている。「今、思い返すと、アフガン大干ばつは、世界を席巻する気候災害の前哨戦で、2000年6月に、WHO世界保健機関が発表した数字は危機迫るものでした。現在進行中のユーラシアの大干ばつ。これは、おそらく人類が体験したことのない規模です。すでにアラル海(カザフスタンとウズベキスタンにまたがる塩湖)が干上がり、アム川(中央アジアからアラル海に注ぐ全長2540㎞の大河)の水が無くなり、中でも最も激烈な被害を受けているのがアフガニスタンです。人口の半分である1200万人が被災しました。そのうち400万人が飢餓線上、さらに100万人が餓死線上でした。政治的な理由で、遂に世界からの救援の姿は現れませんでした」
👇干上がってしまったアラル海 weathernews.jp
「私たちの診療所の周りでも、次々と村が消えていきました。村が消えるんです。本当に消えるんです!日本でよく過疎化だとか人口減少だとかいいますが、そんなものではなくて、本当に、つい半年前まで何千人、何万人も暮らしていた数々の地区が、まったく一木一草も生えない砂漠になってしまうんです。これが現在もアフガニスタンで進行中です。おそらく殆どの日本の人々は知らないのではないかと思います」
「提唱するのは、人権や高邁な理想ではなく、具体的な延命策である」(中村哲)
子供が生活排水を飲んでいる!栄養失調になっている!
診療を待つ間に、体が冷たくなっていく子供たち!
「当時多かったのは子供の犠牲者です。若いお母さんたちが、子供たちをしっかり胸に抱いて、中には何日も歩いて診療所にやってくる。生きてたどり着く方がまだましな方で、診療所で待っている間に、自分の子供が息を引き取るという姿が、ごく日常的にみられたわけです。大半は『水と食べ物』が充分にあれば、死なない状態でした」
「どういうことかというと、水欠乏、脱水が起こりやすいというだけでなく、人間24時間水を飲まないと死にますから、子供は生活排水などを飲んで下痢するわけです。下痢で普通は死にませんけれども、自給自足の農村生活の中で水が無いということは、食べ物が無いということに等しいわけで、栄養失調になっています。そのために体力がおちてどんどん死んでいくんです」 nishinippon.co.jp
薬では、飢えや渇きは治せない!
2005年頃には1600か所の井戸を再生
「いくら薬につぎ込んでも、飢えや渇きは治せないわけで、診療所の枯れた井戸の再生を始めたのが、その年の8月だったと思います。その後その仕事はだんだん大きくなっていき、2005年頃までには、この東部一帯で1600か所の井戸の飲料水源を確保いたしました。ともかく『村を離れずにすむ!』ことができるようになり、数十万の人々が恩恵を受けるという大きな仕事になっていきました」 👇 nishinippon.co.jp X 3photos
「必要なのは思想ではなく、温かい人間的関心であった」(中村哲)
アフガニスタンに必要なのは「パンと水」
「そうこうするうちに、一年が経ちまして2001年の9月11日になりますと、ニューヨークで同時多発テロが発生。もう、その翌日から当時の米国大統領のブッシュさんが、まずは報復爆撃と言い出しました。現地にいる我々はビックリいたしました。『この状態で空爆するのか!』」「タリバン政権だの何だのと言ったって、普通の人々は普通に暮らしているわけで、なんで空爆を受けるのか分からない。私たちにとっては、『今、アフガニスタンに必要なのはパンと水であって、この飢えて死にかけた人々の頭上に爆弾を振り撒くことではない!』と言いましたけれども、大方の国際世論は、『アフガン空爆支持』へ傾いていったわけです」
「やろう!」同胞のためなら命も顧みない勇敢なアフガン人たち
👇peshawar-kai
このような状況下、中村哲医師を中心に日本の心ある人々が動き始め、それに動かされたアフガンの「生きよう!」とする人々による「決死的な働き」が始まった。
中村医師は当時のことを続けて次のように述懐している。「私たちとしては強硬にこれ(空爆)に反対しました。当時空爆があると、その一割は生きて冬を越さないだろうといわれる餓死寸前の人々が10数万人、カブールにいました。私たちは、果たして食糧配給ができるのかずいぶん迷いましたけれども、『やろう!』と私が決定しますと、ボランティアや志願者が約20名、職員なども加わりまして、空爆の中、食糧配給を致しました」
「一発の爆弾で全滅する恐れがありましたので私はこれを3つのグループに分け、たとえ一チームが全滅しても、他の二チームがそれを敢行するようにということで、無事に食糧配給を終わりました。私たちの活動は同胞のためなら命も顧みない勇敢なアフガン人たちに支えられて現在があります」
「100の診療所をつくるより、一本の用水路」
「私たちはともかく、『水と食糧』という方針に変更なく、仕事を続けました。で、飲み水は確保しても、人間、食べるものがないと生きていけません。当時かろうじて利用できたのは、地下水利用のカレーズ(現地の取水装置)でしたが、地下水の水位がどんどん下がっていく。3回、4回、5回と再生しても再生しても水量がちっとも増えない。あとは『大河川からの取水しかない』という結論で、私たちはそれに向かって動き始めました」
👇am-j.or.jp/peshawar-kai
「豊かな診療所周辺の村は、数年で砂漠になってしまう。これが今も広がっています。それで私たちは2003年から、「『緑の大地計画』を立案、砂漠化で無人化した村々をまず復活する目標を立てました。『100の診療所をつくるより、一本の用水路』という合言葉で、その第一弾としてマルワリード(意味:真珠)用水路の建設を開始いたしました。あれから10数年たった現在、これはすでに完成しており、全長27㎞という3500ヘクタールの土地を潤し、この流域だけで約15万人の農民たちが帰ってきています」
「まるで賽の河原のように、造っては崩れ、崩れては改良した」(中村哲)
福岡県筑後川の山田堰の取水技術に習う
「まず物がない、手元にあるのはツルハシとシャベルだけという状態でした。その時、私が考えたのは、『誰がこの水を使うのか』ということでした。使うのはこの人達なんです。用水路は、10年、数百年にわたって代々使われるべきものです。この人たちの手によって建設でき、維持できるものでないと、おそらく、用水路はつくった後、すぐに機能を失うだろうというのが結論で、いろいろと考えました」
「日本の近代工法はほとんど現場で歯がたたない。まず電気がない。機械がない。機械もあり金もあり、電気もふんだんに使える地域でなら、日本の技術、これは医療も同じですが、生かせます。現地はそういった行政組織もなければ、そういうお金もない。という中で、あえて別の方法を取らざるを得ませんでした。取水ですが、日本では電動式でコンピューター制御。これは逆立ちしても現地では出来ないわけです。アフガニスタンで電気が使える地域は、全土のわずか数%で、それも時々来る程度です。農村に行くと殆ど使えない状態で、こういった技術を使えないという現実があります」
「しかし日本とアフガニスタンの川を見る限り、非常によく似ています。従って『取水技術も類似した点がある』というのが私の結論で、結局、近世の日本で完成した治水技術、これが最も役にたちました。九州は福岡県の筑後川に、220数年前にできた『山田堰』があります。現在なお、現役です。200数十年前は、ダンプカーも重機もなかったわけで、これだったらできるだろうということで、こういった技術を積極的に取り入れていきました」
👆モデルとなった福岡県筑後川の山田堰-220年前に完成し今もなお現役! peshawar-kai
洪水にも渇水にも強い堰が実現!-蛇篭と柳を活用、生物の多様性が復活!
「そうはいっても簡単にいかずに、10年を懸けてこの取水堰のコピーはほぼ完成いたしました。現地風にやきなおしたスタイル(マルワリード取水堰2004~2014)が確立しました。この堰の凄さは洪水にも強く渇水にも強いという点で、大きな働きをする堰です」
👇10年をかけて完成したマルワリード取水堰 peshawar-kai
「用水路の壁も、蛇篭(じゃかご)を採用しました。金網の中に石を詰めて、これを重ねていく方式です。昔は針金が無かったので竹籠だったそうですけれども、これも現地の人は、きれいに積むというのが彼らの趣味で、この石積みの仕事も彼らは好んでやるわけです」「かごの裏に柳を植えますと根っこが生えて来ました。針金は20年、30年で錆びて無くなりますけれども、生きた柳の根っこが、生きた網となって壁の構造を支える、これも我々のご先祖様が考えついた偉大な知恵だったんですね。たとえ崩れてもつくり直しやすい、維持しやすいということがメリットです」「水草が生えやすい、魚が入ってくる。それを狙って鳥がやってくるということで、最近、生物多様性ということが言われています。自分たちでつくるということを徹底いたしました」 👇 peshawar-kai
「用水路が伸びる度に村々が復活していきました。かつて我々が息を飲んだこの荒野が、『もう人が住まない』と地元の人が断言するくらい荒れた土地が、水が戻ると、数年も絶たないうちに緑になりました。あちこちの村が復活していったのです」
「自然との同居のちえ」が村々を救っている
「我々のご先祖様が確立した『自然との同居のちえ』、これがアフガニスタンの多くの村々を救っています」「2011年になり、JICAとの共同事業により近隣の広大な乾燥地域が復活し、30万人の難民が帰ってきました。『渇水にも、洪水にも耐える取水堰』は、現地の人々にとって夢のような話です。それまで洪水に泣かされ、洪水の次は日照りに泣かされるという状態が、この技術によって見事に回復していったのです」
「見捨てられた小世界で心温まる絆を見いだす意味を問い、近代化のさらに彼方を見つめる」(中村哲)
願いはたった二つ。一つは『一日、三回ご飯を食べること』
もう一つは『自分の故郷で自分の家族と一緒に幸せに暮らすこと』
「最後についたところが、ガンベリ砂漠という砂漠でありまして、ここが一番の難工事でした。摂氏53度、熱中症で次々と作業員が倒れました。けれども、それでも彼らは手を休めることがなかったのです。というのは、彼らの願いは、たった二つしかないんです。一つは、『一日、三回ご飯を食べること』、もう一つは『自分の故郷で自分の家族と一緒に幸せに暮らすこと』、この二つだけなんです。それも叶えられずに難民となったわけですから、この用水路ができあがったら、晴れてその願いを叶えることができる!出来なかった場合はどうなるか。またもとの惨めな難民生活、食うや食わず、生きるか死ぬかわからないような難民生活が待っているということで、『何とか生き延びようとする健全な意欲』が、用水路を建設する大きなエネルギーの一つだったと思います」
👇水無砂漠だったガンベリ砂漠が、今は深い森におおわれる緑地となり豊かな実りを結んでいる peshawar-kai
政治ができないならば、自らが「一隅を照らす光」となって、人々の願いを実現しようと決意した中村医師!国境を越え、宗教の壁を越えて、イスラムの人々をかけがえのない命として尊んだ中村医師の、汗まみれの中で刻んだ足跡は、あまりにも重要なメッセージとなった。
開口一番、「先生、これで生きていけます!」という歓喜の声
「2009年の8月になり、第一回目の24㎞の(砂漠横断水路通水)開通式が成功裏に終わると、みんな大喜びして、まず、開口一番、『先生、これで生きていけます!』と歓喜の声をあげたんです」 👇buzzfeed.com/peshawar- kai/nishinippon.co.jp/forbesjapan.com/peshawar-kai
中村医師はその時の様子を、著書「希望の一滴」の中で次のように述懐している。「その日の糧を得るために、もう卑屈になったり、物乞いしたりせずとも良い、餓死の恐怖が去り、神と良心の前に胸を張って生活できる。その自由を嚙みしめたのだ。人々の生き延びようとする健全な意欲こそが、用水路を成功に導いた力の一つであった。『これで生きられる!』という叫びこそが、立場を越えて、生を実感して得られる人間の輝きだと今も思っている」
「アフガニスタン東部のガンベリ砂漠は今、平和な静寂が支配している。かつて荒涼たる水無し地獄だった原野は、深い森が覆い、遠くで人里の音、子供たちが群れ、牛が鳴き、羊飼いたちの声が、樹々を渡る風の音や鳥のさえずりに和して聞こえる。この一角に我々の広大な農場があり、今も開拓が進められている。その中心地に一万2千坪(約4万平方メートル)ほどの記念公園があり、四季の花が咲き乱れ、人々に憩いの場を提供する。『ここは無人の砂漠だった』。。ふとよみがえる過去の惨状を思うと、この平和な光景が夢のようだ」
緑地となったガンベリ砂漠を背に peshawar-kai
「人々の祈りが裏切られることはなかった。隣接地帯に建設された8つの新たな取水堰と水路によって安定灌漑地が拡大した。2019年現在、総面積1万6500ヘクタール、65万人が暮らせる農地が回復した。この苦闘を心にとどめるべく、『ガンベリ記念公園』が開かれたのである」
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現在アフガニスタンを最も苦しめていること
「温暖化による荒廃」
中村医師は語る。「訴えたいのは『温暖化による荒廃』です。アフガニスタンで最も問題なのは、現在進行中の『温暖化による荒廃』です。私たちは、『戦いよりも食糧自給だ』ということで、何とかできる範囲で力を尽くしてきました」「『気温が上がる』と干ばつが進行していく。この過程が、現在アフガニスタンを最も苦しめていることだと訴えたいと思います」
中村医師は、著書「希望の一滴」の中で、以下のように温暖化を軽視する経済至上主義に警鐘を鳴らしている。
「今思い返すと、アフガン大干ばつは、世界を席巻する『気象災害』の前哨戦であった。既に海水面上昇による島嶼の水没、氷河の世界的後退、北極海の氷原融解などが伝えられ、陸上では台風とハリケーンの巨大化、森林火災の頻発、大規模な洪水と干ばつなどが各地で報ぜられた。それでも、所在のはっきりしない気候は真剣に問題にされにくく、温暖化を軽視する経済至上主義も、依然として根強い。それは、自然を無限大に搾取できる対象と見なし、科学技術信仰の上に成り立つ強固な確信である」
「ここでは、『温暖化と干ばつと戦乱の関係』はもはや推論ではない。治安悪化の著しい地帯は、完全に干ばつ地図と一致する。その日の食にも窮した人々が犯罪に手を染め、兵員ともなる。そうしないと家族が飢えるからだ。一連の動向は、世界の終末さえ彷彿(ほうふつ)とさせる。干ばつの克服は、単にアフガニスタンの問題ではない。全世界が連帯・共有すべき課題でもある」
全国展開をめざし研修センターの設立に取り組む
「この十数年間で、熟練工の集団が育ち、更に拡大をするための努力が続けられており、2020年までの完成をめざしています。これを一つのモデル地区とし、自然発生的に近隣地区に拡大していくことを考え、現在、この『研修センター』などを含めた次のステップへと活動を広げつつあります。全国展開することを想定しつつ仕事が進められております」
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日本側の協力がこの忍耐を支えた
中村医師は、希望の一滴の中で、日本からの支援について語っている。「2019年2月、ようやくにして堰の施工技術や構造的の完成をみた時、機運は高まり、政府も本腰をあげ、国の標準の一つに決定し、国際機関とも協力、普及を目的に技官たちをPMSの研修所に送り始めた」
「日本側の協力がこの忍耐を支えた。30億(12000名会員による年間3億の寄付)に上る個人寄付は、額ではなく、この事業に結集した数十万の日本の良心の健在を象徴する。技術だけではない。変わらぬ人の温もりこそが、山田堰を築いた先人が伝える神髄なのかもしれない」
人と自然がいかに折り合っていくのか
「30年近く働いてきて思うのは、命ということを中心にして、『医療から水』、さらに水を通して『人間と自然の関係』へ至りました。今、世界中がきな臭く混乱した状態の中で、私たちはいかに生き延びていったらいいのか、それは、決して武力だけではないだろうというのが私の率直な感想です。『人と人が和解する』のはもちろん、『人と自然がいかにうまく折り合っていくのか』。これがこれから大きな課題になっていくのではないかと思います」
その遺志はさらに輝きを増し、
永久支援となって次世代へ引継がれていく
2019年12月、銃撃を受け帰らぬ人となる
2016年に旭日双光章(旭日小綬章を没後に追贈)、2018年にアフガニスタンの国家勲章を受章、2019年10月に同国の名誉市民権を授与された。その二か月後の2019年12月4日、東部ナンガルハル州のジャラーラーバードで、中村医師(73歳)は車で移動中に何者かに銃撃された。米軍のバグラム空軍基地へ治療のため搬送される途中、帰らぬ人となってしまった。運転手や警備員たち5名も共に死亡。12月7日、中村医師の遺体が空路で日本に搬送される時に行われたカブール空港での追悼式典では、ガニー大統領が棺を担いだ。犯人は今も不明。12月11日、福岡市で営まれた告別式には、親交のあった上皇御夫妻や秋篠宮御夫妻などから弔意が寄せられ、モハバット駐日アフガニスタン大使、久保千春九州大学長らが弔辞を読んだ。
「中村哲医師が歩んだ道を私たちも歩む」
「ペシャワール会」(福岡県福岡市)は、中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で、1983年に結成された国際NGO(非政府国際協力組織)。中村医師の遺志は引継がれ、会員2万2千名の支援により「永久支援」を掲げ、今も現地活動が継続されている。会長の村上優氏は、2021年に第56回社会貢献者表彰を受賞した際、「中村哲医師が歩んだ道を私たちも歩む」として、次のように語った。
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「中村先生は非戦を貫き、真の平和と相互扶助が人類共通の文化遺産として、誰とでも協力して、他所へ逃れようのない人々のために力を尽くしてきました。その精神は中村先生が亡くなった後も引き継がれています。タリバン復活後も、医療、農業、灌漑用水路事業と順次再開して現在に至ります。様々な困難を越えるよう奮闘しています。これまでも中村先生がされていたように命をつなぐ活動を進めます」
中村医師を、現地で補佐して共に闘った事務局の藤田千代子さんは、次のように思い出を語る。「(先生は)用水路建設が行き詰まった時は、『あまりにも大きなことに手を付けたんじゃないか』といわれることもありました。ずっと薄氷を踏む思いで挑んでいたと思います」「中村医師から引き継いだ責任の大きさに眠れない日もあります。とつとつとした中村医師の声が何度も耳に響きます。『どうせ、せないかんことは決まっとる』-この言葉は壁にぶつかる度に中村医師に言われた言葉です」「収穫作業をするアフガン人の笑顔が目に浮かびます。『もう銃を持たなくていいんだ!』。用水路の恩恵で緑が戻った地域では、食い詰めて兵士となっていた人たちが次々に帰農しました。大統領が「復興の鍵」と評した事業は、アフガン各地で必要とされています」
「今も飢えに苦しむ人がいると思うと少しの猶予もありません」
「中村哲医師三周年追悼の会」が2022年11月に福岡市で開かれた時、長女・中村秋子さんは、「今も飢えに苦しむ人がいると思うと少しの猶予もありません。そのためにこの事業が続いていきますように」と活動への支援をよびかけた。
功績に対する感謝の声が世界から殺到
‟アフガン史上最大の英雄”という賛辞
「ナカムラ医師が用水路を作ってくれたおかげで、アフガンの砂漠に緑が誕生したんだ。地獄を天国に変える術を知っている、偉大な男だった/ アフガン人なら今まで彼が何をしてきたのかみんな知ってる。それなのに守れなかったことは痛恨の極み/ ナカムラ医師は砂漠に楽園を作り出してくれた。ただただ地元の人たちの幸福を願って……/ 自分の人生の中で最も痛ましい出来事。荒廃してたこの国に希望を与えてくれた存在だった/ 自らを犠牲にして、世界のために戦ってくれてありがとう/ 大きな損失。全てのアフガン人が中村医師を愛している/ 彼の功績を絶対に忘れない。本物のヒーローが旅立ってしまって本当に悲しい/ アフガニスタンの全ての政治家の功績を足しても、ナカムラ医師が遺した功績には遠く及ばない。アフガン史上最大の英雄だと思う/ アフガニスタンはナカムラ医師を失ってしまった。しかし彼が命を与えてくれた草木は、これからもアフガンの大地を覆い続けることだろう/ 日本の皆さん、ナカムラ医師を守れなくてごめんなさい。全てのアフガニスタン人が悲嘆に暮れています。
(了)
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主な出典
「希望の一滴」(中村哲、アフガン最期の言葉)著者中村哲 2020年 西日本新聞社
中村哲 ペシャワール会現地代表による日本記者クラブでの現地報告 www.youtube.com/watch?v=5wYNkr4Q_us&ab_channel=jnp
ペシャワール会現地報告会 2020年10月3日 https://tinyurl.com/59dkp42n
アフガニスタン 永久支援のために 中村哲 次世代へのプロジェクト(2) https://tinyurl.com/47rbpbyd
中村哲医師追悼の会-中村先生と共に歩む 追悼の会
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-3280.html
本稿の主な写真は、著者、PMSスタッフ、ペシャワール会、西日本新聞社によるものを源泉とし、著書「希望の一滴」他、各メディアからの出典によるものです。
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